左)海部俊樹元首相(Koichi Kamoshida/Getty Images)
5. 「人口は社会のムードでいつかは反転するだろう」という楽観論。
6. 当時の厚生省が注力していた政策は、「ゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10カ年戦略)」である。世間の関心は目の前の介護老人であり、高齢化こそが深刻な課題だった。
7. 政治家にとって少子化対策はすぐに結果がでるわけではない。だから、力がある大物政治家ほどやりたがる人はいなかった。珍しく、社会党の一議員だった村山富市(のちの首相)は、〈私は結婚式のスピーチで"これからは二人以上産まないと幸せになれない"ということにしている。子供は社会の基盤だから国の責任として産みやすい条件をつくっていかなければならない〉と言っていた。自民党より社会党の方が少子化に危機感を抱いていたのは、年金制度の維持が念頭にあったからだ。
1から7まで並べてみると、各界の思惑が一致した結果、「少子化対策、不要!」となったと考えていい。いやはや八方塞がりとはこのことで、女性官僚たちまで反対するものだから四面楚歌である。古川氏が首相官邸に出向いた結果、10月2日、海部首相は所信表明演説でこう宣言したのだ。
「将来の高齢化社会を担う児童が健やかに生まれ、育つための環境づくりに努めます」
今聞くと、寝言のような表明だが、タブーを超えて、首相が出生に触れた戦後初の少子化対策表明だった。が、翌日の新聞で「(出生率)1.57ショック」という言葉で海部首相の演説に触れたのは前出の岩渕氏のみ。全メディアがスルーした。ピンとこなかっのだろう。大半のメディアが言及したのは、「消費税の税率」議論と「政治の信頼回復」だった(この話題もその後も延々と続くわけだが)。
タブーを破った表明ではあったが、本格的な政策として取り組まれたかというと、予算の配分を見ても積極的とは言い難い。そして2年後の1991年、ついに育児介護休業法が制定された。いまの育児休職がようやく法律化されたのだ。海部首相が踏み込んだ表明をしたのは評価されるべきだが、その27年後の2016年、「保育園落ちた、日本死ね」が流行語大賞のトップ10に選ばれて、なぜか山尾志桜里衆院議員(当時)が表彰された。海部首相が「子供を産み、育てやすい環境」と演説した時に生まれた子供が、父親や母親になるくらい年月が過ぎ、その子たちが子育てのことで「日本死ね」といきり立つようになったわけだ。その間、統計の通り、日本は少子化になっている。
子供は未来であり、未来には投資をして予算をつけていくべきだが、それが正しいとわかっていても危機は先送りされる。あの演説から33年。海部元首相の死去でその33年の年月を振り返ると、進んでいるかもしれない子育て政策の亀の歩みのような遅さを感じずにはいられないのだ。