こうしたカントの分析が必ずしも妥当かは議論の分かれるところだが、「美」と人間存在との直接的な結びつきという普遍性の指摘には疑問の余地はなさそうだ。また、美は単なる美しさとしてではなく、道徳や倫理との関係において、哲学的にも議論されてきた。
これに対して、20世紀以降のコンテンポラリーアート(現代美術)の主題は、「美」そのものよりも「価値観」の方に移ってきている。即ち、我々が持つ既存の価値観を揺さぶるようなアート作品が中心に踊り出て、アート界におけるいわゆる「美的なもの」の意義は低下してきている。むしろそうした従来的な美は、デザインや工芸の世界の領域に移ってきていると言えるかも知れない。
これは、工業技術の発展により、細密や精密であることの希少性が低下してきたということもあろうが、より根源的には、アートがその提示する価値観によって判断されるようになったことがあるように思う。
レッドカーペット・オークション・イベントで(2011年8月20日、マイアミビーチ) (Photo by Vallery Jean/WireImage, Getty Images)
「サイエンス重視」では限界。実業界は「アート思考」に傾倒する
つまり、資本主義、共産主義、全体主義などイデオロギーの時代を経て、その中で二つの大きな世界大戦を経験したことで、人類がこれまで信じてきた「〜主義」というイデオロギー的なものが行き詰まったという閉塞感である。その中で、社会学者のマックス・ウェーバー的に言えば、我々を閉じ込めている「鉄の檻」を打ち破る武器としての役割が、アートに対して求められたということではないだろうか。
最近では、ビジネスの世界においても、「アート思考」ということが言われている。例えば経営コンサルタントの山口周は、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の中で、伝統的なビジネススクールへの需要が減りつつある一方で、アートスクールや美術系大学に多くの企業が幹部を送り込んでいる実態を論じている。
これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいたビジネススクール的な経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできないという認識が、その背景にあるのだという。