せめて月に一度、可能なら二度でも三度でも、誰にも邪魔されず、リモートワークでも、寛ぎでも、遊びでも、自分のために滞在してみるといい。
日本のホテルは旅館の歴史と相俟って、伝統的かと思えば西洋のホテルのごとくスタイリッシュに最新鋭設備を纏う、東西融合の技や感性はピカ一だ。
もてなしも、デザインも、世界レベルへと進化を遂げている。
まずは週末、金曜日の夜にチェックイン、ゆったりと日曜日が終わるまで、我儘な時を満喫するのが大人の使い方の流儀である。
ホテルジャーナリスト せきねきょうこ
秋の好天に恵まれた日、海風が心地いい鎌倉由比ガ浜を訪ねたのは、モダンな1棟貸しの旅館「Modern Ryokan Kishi-ke」(以下、岸家)を体験するためだった。由比ガ浜は、明治になり鎌倉に汽車が開通したのをきっかけに、海水浴を楽しむ外国人やセレブリティなど流行を先取りする人々で賑わったと伝わる。
現在のように広く人気を博すようになったのは、その後、時代を経た昭和に入ってからのことだ。鎌倉には古刹名刹も多く、観光客を惹きつける‘大仏’も鎮座する。さらに海も山も有り、日本の伝統文化を色濃く残しながらも、京の都とは異なる不思議な新旧の魅力を湛える古都である。
日本らしい格子戸ながらモダンな外観の「Kishi-Ke」、由比ガ浜に面する前景。手前は駐車スペース。窓の1階は食事カウンターのある部屋、2階は寝室
その鎌倉由比ガ浜に面して、2019年5月、古木で作られたモダンな宿「岸家」が門戸を開けた。苗字をそのまま旅館名にするにはきっと理由があるのだろうと、若い主に尋ねてみると、やはり家系図が登場した。生まれも育ちも東京という主ではあるが、家系を辿れば、宿の主の岸 信之氏は、岡山藩主池田家の重臣として仕えた武家 岸家の16代当主という。
そして今、その当主は精進料理に磨きをかける妻と二人でこの旅館を営んでいる。鎌倉に居を構え、1棟貸しの宿「岸家」を始めたのも、伝統と新しさが交じり合うこの街に、伝統文化と現代、そして未来を融合させた宿がぴたりと嵌ると考えたのだろう。
それはコンセプトに掲げる「知足」というテーマを基に、‘日本文化体験型の宿’を営むためであったと主は語る。ここでは「岸家」という宿の現在の姿を紐解いていこう。
近年、日本国内には確かに1棟貸しの宿が急増している。1棟貸しの魅力といえば、まず自分の別宅のように使えること、プライバシーが守られ、ファミリーでもカップルでも、そして贅沢だがワ―ケーションや多忙を極めるキャリア女性の癒しの独り旅、または女性同士の観光目的にも魅力的に映る。さらにこの宿が提供する日本の伝統文化・お作法体験にも素敵な環境と言えそうだ。
夏の時期、主の妻、仁美さんが冷茶のお点前を実践する姿。奥の緑部分は庭園の一部
敷地の中央には中庭が広がり、庭園の北側には「母屋」が建つ。その2階は主の住居であり、1階にはゲストが到着して一息つくためのスペースが造られている。庭の南側にはダイナミックなオーシャンビューが望める「離れ」が建ち、その棟がまさに「岸家」としてのゲスト棟である。
こうして「岸家」は3つのバージョンから形成されている。ゲストが使用する「離れ」の1階は、海に向かい大きなガラス窓が造られ、食事のためのカウンター席がそのガラス窓に向かっている。運が良ければ霊峰富士の姿も望めるロケーションだ。2階には寝室、バスルーム、洗面キャビネット、トイレなど客室としての設備が整い静謐な時の流れる明るい空間である。
バスルームから見る2階客室。ベッドは庭園に向かい静かな寝室
コンセプトに掲げる「知足」は、「老子」三三章の「足るを知る者は富む」に由来し、‘分相応で満足すること’‘欲張らないこと’などの意味がある。岸家では意味を少し広く解釈し、「今を満足する+未来志向」と考え、滞在者に数々の日本伝統の文化体験を提供し、未来への継承を実践しているのだ。
禅との関りが深い茶道、煎茶道、生け花、和菓子作り、精進料理まで、それぞれ事前に予約入れておけば丁寧な指導がカスタマイズされる。
カウンター内で精進料理を創る仁美さん。これまでの精進料理の殻を破り、美味しくて美しく、誰もが抵抗感なくいただける
茶道の菓子類(生菓子、干菓子、有平糖など)も自家特製
珍しい石製の抹茶茶碗は貴重な作品。平成16年に厚生労働大臣より‘現代の名工’を受賞した石山人(せきさんじん)工房代表の所 一郎作。「1カ月に造れる数はせいぜい2,3個」と語る