40年続ける中では、レストランの改装や移転、支店の閉店など、多くの変化を経験したが、変わらず大切にしてきたのは、「宇都宮で続ける、おいしいものを出す店である」というシンプルな原則だ。
子どもたちにはよく、「必要とされる店になれ」と伝えているという。「世の中に求められることに誠実に答えていく、そうすれば、大きく間違うことはない」と。有名な観光地もない宇都宮は、特に、身近な地元の人に必要とされることがカギとなる。
それには、地元に“おいしいものを楽しむ文化”を築くことも欠かせない。音羽氏は、子どものうちから食材の味を知り、味覚を育ていくことが大切だと考え、30年前から小学校を回って食育に取り組んでいる。これは、地元の子どもたちに「レストラン」に親しみを持ってもらうことにもつながっている。
「仏の音羽」たる所以
こうした活動を続ける音羽氏は、「仏の音羽」と呼ばれ、声を荒らげることすらない、穏やかな人柄で知られている。数十年前は特に、フランス料理店の厨房といえば、怒鳴られるのは日常茶飯事、ときには皿やフライパンが飛び交う店も少なくなかったが、まるで真逆の対応をしてきた。
そもそも、40年前の創業時に選んだのは「ほぼ全員未経験者」。給料の高い経験者を雇うよりも、丁寧に教えて店と一緒に育っていってくれれば、と考えた。
「シャペルさんがそういう人だったんです。野菜ひとつ扱うのも丁寧で、ものを雑に扱うところなど見たことがない。それに、シェフがイライラすると厨房が乱れて、働く人が長続きしないのです」
ときに苛立つことあっても、「簡単なことをやっているわけではないから」と冷静になるという。宇都宮に美食の文化を根付かせるという挑戦。それがどれだけ大きい夢かを知るからこそ、それが「簡単ではない」と腑に落ちるのだ。
その悟りのような覚悟は、二人の息子にも浸透しているようだ。元氏はフランスのシャペル氏のレストランで研鑽を積み、創氏もフランスでの修業の後、東京ではフランス料理「シエル・エ・ソル」のシェフとしてミシュラン一つ星を獲得。都会に留まることなく戻った理由を次のように語る。
「選択肢が多く、スタッフの入れ替わりが激しい都会より、地方の方がスタッフ教育もしやすく、チームとしての輪を形成しやすいです」と創氏。元氏も「東京は、スピードが速すぎて、じっくりと成長する余裕がない。自分の成長に加え、仕事と家庭、両方のバランスの取れた環境という意味でも、私には地方の方が向いていると考えました」と言う。