44歳だった2019年に退職した千正さんは決断の数カ月前、過労のために休職していた。そのことが退職の理由と思われたこともあるが、「自分のなかではそうじゃない」と語る。
厚生労働省での官僚の仕事を「最高の職業」とまで思っていた千正さんに訪れた転機と、決断への思いとは──。
「お客さん」のことを知りたくなった
「やめる直前まで本当に幸せでした。自分は、好きなことをずっとやってきて、厚労省はすごく受け入れてくれていたんですよ」
2001年に入省した千正さんは「現場主義」を貫いた異色の官僚だった。19年9月末に退職した千正さんの頭に「退職」の二文字が浮かんだのは8月の頭。8月下旬に決断し職場に伝えた。つまり、直前までやめようと思ってはいなかったのだ。
そもそも、千正さんが「自由にやらせてもらった」とふり返る、型破りなライフワークが形作られてきたのは、若手時代の2006年ごろ政策の仕事が反映される最前線の現場を見に行ったのがきっかけだった。
「元々、24時間365日社会のことを考えることが許される環境を求めて官僚になったんです。仕事が一通りこなせるようになると、法改正に取り組んでいる中で『この条文をこう変えると、現場の人の仕事はどう変わっていくのか』『現場の人の仕事がこういう風に変わると、最終的に届けたいお客さん、つまり生活者の環境はよくなるのかどうか』ということが分からないという悩みが湧いてきました」
プロジェクトを終えると、組織からは評価された。しかし、学生時代から優等生ではなかったと自認する千正さんは、上の人から褒められても全く満足できなかった。自分の仕事が社会につながっているのかどうか、どうしても知りたかった。
「自分で自分の仕事がよかったのかどうかわからない、というのがすごく気持ち悪かった。そこから僕は『じゃ、見に行くしかないな』と思って、平日夜とか土日に現場を見に行くということをやり始めたんです」
厚労省の管轄のひとつである、ひきこもりやニートなどの若者支援の現場を見ることで、「(自身の仕事の)客に初めて会えた」という。現場で同年代のNPOの代表たちと出会い「官僚でなくても、NPOという世界にこんなに日本のことを考えている人たちがいるんだ」と意気投合。次から次へと色々な現場に出向き、様々な分野のNPOとのつながりができた。それが「役人人生」の最大の転機となった。
「自分の仕事の意味がわかるようになり、自分が作っている政策がマルなのか、バツなのかが判断できるようになったし、現場で見つけた政策の種を現実の政策に結びつけたり、30代の間はめちゃくちゃ楽しかったですよ」
また、官僚が練り上げた政策が一般の人たちに内容が理解されていないという課題を強く感じたのもこの頃だった。
千正さんが初めて法律改正に携わったのは、「マクロ経済スライド」という仕組みを導入した2004年の年金改革だった。少子高齢化が進んでいくなかで年金が破綻しないように段階的に保険料を引き上げ、給付の伸びを抑制していくというもので、「将来のために必要だけど、『短期的には誰も喜ばない法改正』」とふり返る。国会審議や報道では大臣の年金未納問題などに焦点が当たり、制度の中身について取り上げられることはほとんどなかった。
「改正から数年経って別の部署にいましたが、たまたま国民年金の納付率の発表を見たんですよ。下がってたんですね。僕らは『あの仕組みを入れたから、年金は将来も安心だ』と思ってたんだけども、世の中の人は全然そんな風に思ってないから、安心して年金を納めてくれないんじゃないか」