章男は、度重なるレース経験を積み、極限を知れば知るほど、いいクルマとは何かを自問自答するようになった。
「〝TNGA〟という新しいクルマづくりをプリウスでやっていると聞いたとき、トヨタが大きくバッティングフォームを変えてきたなと思いました。トヨタの首位打者ともいえるプリウスで大胆にフォームを変えてきた。世界はまったく違いますが、やっぱり僕とどこか似ているという気がします」
2015年の東京モーターショーで、豊田章男とともにステージに登場したイチローは、そう語った。
「TNGA(Toyota New Global Architecture)」とは、「もっといいクルマづくり」を実現するためのトヨタ全社をあげたクルマづくりの構造改革だ。
章男が社長に就任する前のトヨタは、販売台数や世界シェアなどの数値を目標にしていた。しかし、章男は、いたずらに数値を追い続けると、トヨタは壁にぶつかると危機感をもっていた。
逆転の発想でつくられた「GRヤリス」
「もっといいクルマ」をつくるには、限界を試されるレース経験が求められる。そして、クルマを強くするためには、マシンを壊し、カイゼンし、再びレースに出るというサイクルの繰り返しが必要だ。それでこそ、人とクルマは鍛えられる。
実際、数々のレース経験は、章男にいいクルマづくりのあるべき姿を教えた。トヨタのクルマを次のレベルに引き上げるには、過酷なレースに挑み続け、カイゼンを積まなければいけない。そして、トヨタのスポーツカーを取り戻したいと章男は考えた。
「まったくの逆転の発想でつくりだしたクルマが、今年、発売した『GRヤリス』です」と、章男は語っている。
豊田章男とトヨタのヤリス。写真は2016年9月、パリモーターショーで撮影された (Getty Images)
「GRヤリス」は、極限のレースで鍛えられた市販スポーツカーだ。
開発初期から、社外のプロドライバーと技術陣がチームになり、走りからあがってくるすべてのデータをチェックし、開発に落とし込んでいった。ドライバーの操作やクルマの状態をテレメーターでチェックし、必要な項目を洗い出しては、カイゼンを行っていった。これまでにない速度で精度の高いカイゼンが繰り返された。愛知県豊田市の元町工場にスポーツカー専用ラインを新設し、セル生産方式で一台ずつ組み立てていった。
「できる限り多くのデータを残すことでカイゼンし、もっといいクルマづくりにつなげていった」と、章男は語っている。
「GRヤリス」はレースで鍛えられたクルマだが、じつは、レースで鍛えられたのはクルマだけではなかった。