──興味深いですね。組織ジャーナリズムについては良い面も悪い面もあると思いますが、古田さんが新聞社を飛び出し、独自のキャリアを歩んでいる理由を教えてください。
僕が新聞社を辞めたのはいろんな理由があります。一つは日本の人材市場の流動制が低いということや、その弊害についていろんなところで話したり、書いたりしてたことです。自分でそう書いたからには、どこかで辞めなきゃいけないと思っていました。
日本のマスメディアは非常にいい面もありますが、変えないといけないところもあります。会社の組織改革のための提言をしたり、新しいデジタル表現にチャレンジしたりしましたが、その中で感じたのが、社内でやるだけでなく、内部のことを知っている人間が社外で成功例、実例を示す方がインパクトが大きいのではないかということです。
ずっと抱えてきた問題意識として、ジェンダーの問題やLGBTに関する報道が日本のマスメディアでは足りないと思っていました。新聞社自体が、ジェンダーバランスやマイノリティへの課題感が希薄でした。バズフィードジャパンではこういった論点をしっかり扱い、自分たち自身も例えばジェンダーギャップが社内で生じていないか、議論を重ねました。
メディアの過重労働の問題も100年続いているなか、バズフィードでは残業を減らすなど働き方改革にも取り組み、意志を持って取り組めば、長時間労働が当たり前というニュース業界の文化を変えることができることを示しました。
社会的な少数者や格差、差別への関心は学生時代からありました。僕はセクシャリティでは異性愛者で性別も自己認識も男のいわゆるマジョリティ側の人間だし、ジェンダーバランスで言えば下駄を履かせてもらっている側で、子供時代から裕福ではなかったけれど、貧困に苦しむということもなかった。でも、周りを見渡せば、国内外に困っている人、差別を受けている人はたくさんいたし、今もいます。
故・中村哲さん(2003年撮影、Getty Images)
僕がハッと気づかされたのが、アフガニスタンで人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」の現地代表で医師の故・中村哲さんの言葉なんです。地元の福岡高校の大先輩なのですが、毎年、帰国して講演をしていた。大学生の頃、会場で質問をしたことがあります。「世界にも、日本にもいっぱい困っている人がいるのに、なんでアフガニスタンなんですか?」と。
そうしたら中村さんは「いやー、見ちゃったんですよね」と。少し照れながら答えてくれた。元々昆虫が好きで、パキスタンの山に綺麗な蝶がいるからついてこないか、という誘いで山岳隊の同行医として現地に赴いた。そこでろくな医療も受けられない貧しい人たちの姿を見て、ここで医者をやる、と決心したのだそうです。
その後、どうもアフガニスタンの方が大変らしい、病人以上に餓死する人が多いということで、アフガニスタンで井戸を掘ったり、用水路を建築したり、緑を増やす活動を始めました。
困ってる人を見たら助ける。そのシンプルな思いにすごく感銘を受けて、「僕は困った人を助けようとする人の活動や気持ちを伝えよう。メディア、ニュースの世界を生涯の仕事にしよう」って決めて記者になったんですよね。もちろん、この瞬間にも世界中で困っている人がいることについての無力感に苛まれることもあり、この業界に18年いる人間としての責任も感じます。