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着物からシルクへ、十日町から世界へ。
71歳のアントレプレナーの終わりなき挑戦
今でこそ着物のアフターケアの概念は業界に定着しているが、1980年代の着物業界は「販売店は売ったら売りっぱなし」、「消費者は汚れのついたまま着物を保管するのが当たり前」、そんな時代だった。“もっと気軽に着物を着てほしい”“大切な着物を美しいままで長く楽しんで欲しい”、きものブレイン代表取締役岡元松男はそんな思いから事業をスタートさせた。2015年には世界初となる大型無菌人工給餌周年養蚕事業を開始。現在は「新シルク事業」に意欲的に取り組んでいる。71歳という年齢になってもチャレンジャー精神を失わない岡元に、その原動力を聞いた。
業界内の冷たい視線に耐え、
消費者に寄り添う事業を模索
きものブレインの代表取締役である岡元松男が生まれ育った新潟県十日町市は、京都と並ぶ着物の産地。呉服店や織物メーカーに囲まれて暮らし、岡元自身も、当たり前のようにきものブレインの前身となる着物販売事業をスタートさせた。1976年、27歳の時である。
だが、一点、人と違ったのは、岡元は着物を販売すると同時に、着物のアフターケアに着目していたことだ。当時、バブル期の業界内にはアフターケアという概念は皆無。きっかけは、着物販売会に来てくれたお客様のある言葉だった。「大切な着物は、汚すと大変だからできるだけ着ないようにしている」。さらに詳しく話を聞くと、こんなことがわかった。クリーニングしてくれるお店もないので、大半の着物が汚れたままタンスにしまわれている。すると、保管しているうちにシミが変色して広がり、次に着る時にはせっかくの美しい着物が台無しになっている、というのだ。
金儲けだけではなく、お客様に本当に喜ばれる仕事をしたい。そう考えていた岡元は、人々がもっと安心して気軽に着物を着ることができ、最高の状態のまま末長く楽しめるように、新しいシステムをつくることが必要だと考えた。そこで、1980年に着物のアフターケアサービスを開始。職人、技術者を集めて、シミ取りなどを請負った。お客様からすぐに好評を得て口コミが広がり、ほどなくして近県から注文が舞い込むようになる。
これは間違いなくニーズがある。そう確信を得て、83年に全国で初めて着物のアフターケアの看板を掲げ、加工部門として事業化。販路を広げるべく、5年かけて全国200社以上の呉服店を訪問してアフターケアの必要性を訴えてまわった。だが、消費者の反応とは正反対に、販売業者からはまったく理解を得られない。「アフターケアより新しい着物を売る、そんな時代。『アフターケアなんて辛気くさい』と言われたこともありました」と、岡元は当時を振り返る。
同業者から反発されればされるほど、使命感に燃えた。「消費者はこんなに喜んでいる」。しかも、世界を見渡して10万円以上の商品を販売してアフターケアが希薄なのは着物業界だけ、という事実もあった。
しかし信念だけではビジネスは続かない。県外からも需要があるといっても口コミでは数に限りがあり、加工部門は5年間ずっと赤字続きだった。銀行からの融資も厳しくなり、あと1年で黒字にならければ加工部門は撤退、と腹をくくったとき、奇跡が起きた。バブル経済が崩壊して、高い着物をただ売っていればいいという業界の風潮は一転したのだ。呉服店の売り上げが一気に半分以下に落ち込み、危機感をもった全国の呉服関係者から「アフターケアに取り組みたい、見学だけでもさせてほしい」と問い合わせが殺到した。これが、呉服小売市場にアフターケアが定着したきっかけだった。
自身の経験から
障害者雇用にも早くから着手
業界の常識にとらわれず、人々に先駆けて取り組んできたのはアフターケアだけではない。加工部門の事業が軌道に乗り、88年にきものブレインを設立すると、すぐに障害者雇用を始めた。当時、民間企業での障害者雇用は珍しく、サポート体制もほとんど確立されてなかった。それでも企業採用に踏み切ったのは、ダウン症だった姪の存在。彼女を自社で採用したいと考えたことがきっかけだった。
さらには、岡元自身の経験もある。「子どもの頃に右手を大火傷したことがあるんです。田舎ですし医療も整っていなかったから、火傷した部分に味噌を塗る程度の手当てしかできなかった。しばらく後遺症が残り、右手の指がくっついてしまい、思うように動かせない時期もありました。将来働けなかったらどうしよう、と心配した経験があったぶん、人にはそんな思いをしてほしくない、と思うようになった。だから、障害者の雇用にも積極的になりました」。
会社設立以後、障害者を社員として毎年1人ずつ採用した。93年には労働省(当時)から地域の民間企業では初めての「重度障害者雇用施設」の認定を受けた。現在では、32名の障害者を雇用し、「知的・精神支援チーム」「聴覚支援チーム」「車椅子支援チーム」「身体支援チーム」など、障害の内容に合わせて、社内でサポートする体制も整えている。
「雇用の不安を感じてほしくない」。その思いは、女性活用、若者の就業支援へと幅を広げた。十日町市内では着物をはじめ伝統産業の従事者の高齢化が進み、若者の市外への流出も問題になっているが、同社の正社員約200名のうち、約3割は新卒採用で近年に入社した人材だ。さらに、女性を管理職に多数登用し、現在は部長6名中3名、課長10名中6名が女性で構成されている。
社会や業界の常識にとらわれない。一人でも多くの人を笑顔にしたい。そんな岡元の信念が、消費者や従業員への思いやりとなり、前例のない事業の展開、どこよりも早い多様な職場の実現へとつながったのだ。
新たな挑戦へ
「新シルク事業」
「ほぼ完成した着物の事業はこれまで育てきた若手にまかせて、今は『みどり繭』をもとにした新規事業に取り組んでいます」と、岡元は目を輝かせる。東京農業大学と連携し、経済産業省の補助認定事業として、2015年に世界で初めて工業レベルでの無菌人工給餌周年養蚕を実現。翌年には「みどり繭」の人口飼育に成功した。「みどり繭」は強い抗酸化作用を持つフラボノイドを大量に含んでいて、健康、美容、病気予防などの効果が期待される商品の開発が始まった。
着物のアフターケアという事業を起こし、成功に導いた岡元が今なお挑戦を続ける理由とは。その熱源はどこにあるのか、聞いてみた。
理由はふたつある。ひとつは、誰もやったことのない新しいことに挑戦したいという思い。もうひとつは、十日町のような小さな地方都市で多様性のある雇用を持続させ、彼らの将来の幸福を実現するには、事業規模を拡大する必要があると考えたことだ。
「シルク新事業の成果は、消滅寸前の日本の養蚕を復活させる可能性をもち、シルク産業の発展に寄与する事業計画であると考えています。さらに、『みどり繭』の関連商品のグローバルに展開も視野に入れ、来年には「みどり繭」事業に関する部門を分社化する予定です」。71歳のアントレプレナーは、若者のような輝きに満ちた目で今後の事業について楽しそうに語った。
きものブレイン
本社/新潟県十日町市沢口丑 510‐1
TEL/025‐752‐7700
URL/https://www.kimono-brain.com/
従業員数/正社員198名、パート・アルバイト89名(2020年7月時点)
岡元松男◎1949年、新潟県生まれ。76年、創業、呉服販売業を開始。78年法人設立、88年きものブレイン設立。95年、障害者雇用により労働大臣賞を受賞。2006年、KB Vietnam Co.,Ltd 設立、直営工場として操業開始。15年、世界初の大型無菌人工給餌周年養蚕事業開始。現在はシルク新事業に取り組み、21年1月に新会社設立予定。
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text by Ayano Yoshida | photograph by Shuji Goto | edit by Yasumasa Akashi