このデュシャンの「泉」が「最初の現代アート」と言われるのはなぜか。それは彼がアートを、目ではなく、思考で楽しむ芸術へと変えたことにある。
現代アート以前は、「網膜のアート」といわれる。それは、見たものを感覚や感情でとらえて楽しむものだったからだ。一般的な「目利き」という、素人にはわかりにくい曖昧な基準を含む困難さは、ここに起因していると思う。
しかし、現代アートでは、その作品をアートとして成立させている意味、つまりアートをアートとして仕立てている言葉の説明=コンテクストこそが重要な意味を持つ。
なぜ小便器にサインをしただけのものに価値があるのか? 鑑賞者は作品を見るだけでなく、能動的にその理由を考えさせることになる。網膜のアートから、思考のアートへの転換だ。現代アートとは「問う芸術」なのである。
この問う芸術が出現したことにより、アートが持つエンターテインメント性は現代アート以前と比べて大きく増した。現代アートとはつまり、「言葉で面白さが伝えられるもの」なのだ。
バンクシーの作品からコンテクストを読み取る
現代アートにおいて、「思考」するのは誰か? そう、もちろん鑑賞者である。
現代アートの代表格とも言えるバンクシーを例に、思考で楽しむ方法を一緒にやってみよう。
コロナ禍の今年5月に発表されたバンクシーの「ゲーム・チェンジャー」という作品が話題となった。看護師の人形を手にした子供の姿を描いたものだ。そこにはいくつもの問いかけとメッセージが含まれていた。
なぜ彼はコロナのパンデミックの中で、この作品を描いたのか。何を伝えたかったのか。鑑賞者は思考させられる。
コロナで人類に多大な貢献をされている看護師をヒーローに見立てた彼は、そのヒーローを「おもちゃ」として表現した。それはなぜか?
それはバンクシーが医療従事者を「消費」することのないよう、そういう世界が到来することへの警告、あるいは既に消費していることへの気づきを促しているからではないか。
褐色の人形の肌はマイノリティであることを指し、髪型はナイチンゲールに似ている。これはナイチンゲールの言葉「犠牲なき献身こそ真の奉仕」を想起させる。そうした志でいる医療従事者には、感謝すべきなのはもちろん、それが仕事として成立していなければならないことを訴求しているのかもしれない。
これら以外にも、この作品にはいくつのもの示唆が含まれている。