創造性を育む「毒」との対峙の仕方。ポストコロナに向かうべきは超清潔社会か

トマトはイタリア語でポモドーロ。意外にも200年もの間、食用ではなかったとされる。(GettyImages)


消毒作業が進むイタリア
リスクは完全に排除することはできないが、私たちにはできることがある。(GettyImages)

コロナを経験した世界が目指すべき寛解の社会とは


イタリアをはじめとする新型コロナウイルスによる封鎖から解除されつつある世界は、新しい環境にどう立ち向かうのか。

もちろんコロナはトマトや栃の実のように植物に含まれる毒性とはわけが違う。医学と科学の世界の頭脳を集結して対峙していくべき危機であり、恐れるに足りる大きな悲劇を世界中に巻き起こした新たな毒であろう。しかし、この未曾有の事態はおそらく理由があって2020年の私たちの前に立ちはだかっている。

医学用語で「治癒」とは完全に体から毒を退け、完治することを指す。それに対して「寛解」とは、病気に適応し、病状が治まっておだやかになるが、治る可能性も再発する可能性も含んでいる状態だ。おそらく私たちがこのコロナの自粛解除の後に迎える世界は、寛解の社会だ。

ガン細胞やHIVのように、新型コロナのセカンドウェーブというリスクは完全に排除することができないが、暴走しないよう、コミュニティが団結し、お互いを支え合いながら共存していくことを考えていく。

いまコロナ感染者に対して、行きすぎた社会的排除が日本で起こっていることを耳にする。世界との連携も、地域コミュニティの団結も無視して、この先の日本社会が難局を乗り越えられるのだろうか。もしこの事態をバネに、日本の社会が今後も発展する可能性があるとしたら、感染者や弱者を排除せず、あらゆる知恵と創造力を束ねて、危機にまっすぐと対峙していくしかない。世界の多くの国は、そのような方向に向かっていると感じている。

生物学的上、単一種族しかいない画一的な世界はもろく、一気に滅びるリスクが高い。毒とされるものを含めて、多様性を守ることは予測できない世界の変化に対する未来への保険だ。近視眼的に今年、来年の目先の経済復興を目指すのではなく、今こそ本質的に、目指すべき未来を描こうという気運が世界に満ちて来ていることを、ここヨーロッパでリアルに感じている。

今回のコロナの無毒化には、トマトのように200年とは言わないが短くない年月がかかるかもしれない。しかし勇敢に粘り強く、切磋琢磨と新しい世界を目指ざし始めたものから進化する。歴史を辿れば、私たち人類がそのような文化的な進化が出来ることは明らかだろう。

文=齋藤由佳子

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