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2020.03.17 22:00

「プラダ」再建の立役者 ミウッチャ・プラダの成功までの道のり

「プラダ」のオーナー兼デザイナー ミウッチャ・プラダ

バッグは革製のものが主流だった1980年代のランウェイで、ナイロン製のバッグを発表したのが、「プラダ」のオーナー兼デザイナーのミウッチャ・プラダだ。創設者マリオ・プラダの孫として、ブランドの再建から、「ミュウミュウ」の立ち上げも手掛けた彼女の功績を紹介する。

ミウッチャ・プラダの経歴


ミウッチャ・プラダは、1949年イタリア・ミラノで生まれ。ミラノ大学では、政治学の博士号を取得し、在学中は、ピッコロ・テアトロという劇場でパントマイムを学んでいたという。

また、当時のイタリアの共産党に入党し政治活動にも精力的に参加していた。もともとはブルジョワ階級の出生を隠していたが、自身を偽ることを疑問に感じ始める。そこで、周囲の学生に合わせて、ジーンズやヒッピーファッションを纏うことはせずに、あえて「イヴ・サンローラン」を身につけてデモに参加していた。

大学卒業後、母のルイーザに懇願され、祖父が設立したファッションブランド「プラダ」の事業を手伝うことになり、78年にオーナー兼デザイナーに就任。93年には新ブランド「ミュウミュウ」を立ち上げ、ターゲットを大きく拡大した。


「プラダ」の成長


プラダの始まりは、1913年にまで遡る。ミウッチャの祖父マリオと弟のマルティーノが皮革製品の専門店「フラテッリ・プラダ」をオープンした。高品質で上品な革製品が評価され、創業から数年でイタリア王室御用達ブランドへ成長した。

しかし、39年に始まった第二次世界大戦により革材の入手が困難になったことや、イタリアの王政廃止の影響を受け、業績が低迷。58年にマリオが他界後、彼の娘であるルイーザが後を継ぐが経営は回復せず、78年にミウッチャがオーナー兼デザイナーを継ぐこととなった。

ミウッチャは夫でビジネスパートナーのパトリツィオ・ベルテッリと共にプラダを再建。84年に軍隊向けのパラシュートを製造している工場で使用されていた、軽やかな肌触りでありながら撥水性に優れたナイロン素材の「ポコノ」で、黒いバッグを発表した。

革製品が主流だった高級バッグの中で異彩を放ったこのバッグは、プラダ復活のきっかけとなった。88年にはパトリツィオの助言から、婦人服の展開をスタート。多岐に渡るビジネスが功を奏し、2006年には映画『プラダを着た悪魔』が公開されるなど、人気ブランドの仲間入りを果たした。

2018年時点での「プラダ」の売り上げは25億5810万ユーロ、約3223億円にのぼる。

ミュウミュウ誕生


93年にミウッチャが新たに立ち上げた「ミュウミュウ」は、ミウッチャの幼少期のニックネームが由来とされ、プラダのセカンドラインとして展開している。

斬新でモダンなデザイン性と、プラダよりも抑えた価格帯が若い世代からも支持を集め、ターゲットの拡大に寄与した。日本では2011年11月、銀座1丁目にミュウミュウ銀座店がオープンしている。

プラダグループを育てたミウッチャの家族


プラダの創業者である祖父や、母ルイーザだけでなく、ミウッチャの夫や息子など、プラダグループに携わった家族は多い。

夫のパトリツィオは元々プラダのコピーバッグを販売していた。抗議したミウッチャに対し、パトリツィオはビジネス提携を提案。ビジネスパートナーとなった2人は87年に結婚した。

パトリツィオは、ナイロン製バッグの発売や婦人服への進出、ミュウミュウの展開を後押しするなど、ビジネス手腕を発揮しプラダグループの成長に大きく貢献した。

長男のロレンツォ・ベルテッリはイタリアでラリードライバーをしていたが、17年にデジタルコミュニケーション部門のトップに就任。今後のプラダを育てるひとりとして注目を集めている。

文=齋藤優里花 写真=gettyimages

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