キャリア・教育

2020.01.18 20:00

禁忌の先に、何がある? 動物との性愛を読み「愛の多様性」を知る


精神医学では、動物性愛は「パラフィリア(異常性愛、性的倒錯)」のひとつに分類される。つまりは精神疾患の一種である。

その一方、2000年代に入ってからは、動物性愛を病理的ではない性的志向のひとつとして捉える動きも出てきている。近年は、性科学や心理学、犯罪学や哲学などの分野で、動物性愛をめぐる議論が学際的に行われているようにもなっているというが、その際、焦点になるのは、その行為が動物に対する虐待にあたるのかどうかだという。

当初、動物性愛と聞いて抵抗を覚えたのは、この虐待をイメージしたからでもある。「獣姦」という言葉があるが、ズーたちに言わせれば、「動物性愛」はそのような虐待とはまったく無縁だという。動物性愛は、人間が動物に対して、対等なパートナーとして愛着を持ち、時に性的な欲望を抱く性愛のあり方を指す。

たしかに本書で描かれるズーたちの日常は、こちらの先入観を覆すものだ。人間が動物よりも上位にあるのではなく対等な関係にある。彼らによればセックスも一方通行ではない(さらに言えば、セックスは必ずしもマストではない)という。ともあれ、ズーたちの生活を知るには、本書を読んでもらうのがいちばんいい。ここで一部を切り取るだけだと、かえって誤解を招くかもしれないからだ。

動物性愛という言葉に抵抗感をおぼえる人は多いと思う。実のところ、本書を読み終えても、その気持ちがなくなったわけではない。著者は「人間のセクシャリティやセックスに善悪はつけようがない」と言う。論理的にはその通りなのだが、ペドフィリア(小児性愛)などはやはり認めるわけにはいかない。セックスの問題はかくも難しい。

ただ、著者の真摯な探究には深く心を動かされた。

ズーとの対話を重ねながら、著者はいつも自分のセックスを思い返していたという。「ズーとは、自分とは異なる存在たちと対等であるために日々を費やす人々」であると著者は述べる。彼らのセックスはそれ自体が目的ではなく、パートナーと対等であることを確かめるためのひとつの方法に過ぎない。そのようなセックスのあり方は、性暴力のセックスと対極にあることに著者は気づく。

性暴力の目的はセックスにはない。その欲望の根源にあるのは支配欲である。支配こそが性暴力の本質だ。人間と動物が対等な関係を築くなんてありえないと疑う人もいるだろう。だが、他者を支配するための暴力を身体に刻み込まれた経験を持つ著者は、人間と人間が対等であるほうがよほど難しいと述べる。この指摘には考えさせられる。

著者は動物性愛者ではない。だが、ひとりひとりのズーと向き合ううちに、著者と彼らとの間にも、互いを友人として認め合うパーソナルな関係が生まれていく。そのことで著者はようやく回復への一歩を踏み出す。本書でもっとも心を動かされるのは、このプロセスだ。

「愛」とはなんだろう?

互いのパーソナリティーを認め、互いをかけがえのない存在だと認識して、対等な関係を結ぶ。それが「愛」なのだとしたら、相手が動物ではなぜいけないのだろうか。むしろ動物こそが、初めから裏切りのない「愛」をくれる相手ではないのか……。本書はさまざまな問いを突きつけてくる。

この本を読むことで自分が変わってしまうかもしれないという予感は当たっていたかもしれない。なぜならこれまでの常識が粉砕され、読む前の自分にはもう戻れないからだ。だが不思議と不快感はない。むしろ視界が広がったような清々しさをおぼえる。

世界は私たちの想像をはるかに超えて多様だ。本はいつもそのことを教えてくれる。

この本もまた、新しい世界の姿を見せてくれた一冊だった。

連載: 本は自己投資!
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文=首藤淳哉

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