中曽根康弘回想録。国会議員の孫・康隆が明かした101歳の元首相、最晩年の姿

祖父・中曽根康弘に、2019年国会での活動を報告する中曽根康隆(左)


また「総理になれたら何をするか」という政策案などを20冊ほどのノートに書き留めていました。いわゆるメモ魔ですね。とても用意周到で、いつでも力を発揮できるような準備を怠りませんでした。

「政治家は歴史法廷の被告である」。これも、祖父がよく言っていた言葉ですが、政治家の功罪は後々歴史が判断することだから、それほどの責任を背負って決断することへの気持ちの表れだと思います。

時には目の前の人に反対されても、歴史の流れを読んで正しいと思えば、決めなければならない。だから間違っても「バッジをつけること」がゴールではなく、「この国をどうして行きたいか」という覚悟と、絶え間なく修養に努めるというのが大事であると、いま改めて感じますね。

昨年の祖父の100歳のお祝いでは「みなさんのおかげで100年の人生を歩むことができて、家族に感謝している。これからも国のために力の限り尽くしていきたい」と言っていました。 

亡くなる数日前まで新聞に線を引き、国会中継を観ていた

中曽根康隆
祖父との時間を回想した中曽根康隆。右奥のカレンダーを祖父の病室にも貼り、元気づけた

晩年の祖父は入退院を繰り返していましたが、最後は2カ月くらい病院にいました。ですが、医者も説明できないような生命力があり、元気に過ごしていました。病室でも相変わらず新聞に線を引きながら、3、4時間もかけて端から端まで読んだり、テレビで国会中継を見たりしていました。

亡くなる1カ月ほど前に会った時には、少し元気がなかったのですが、私の議員カレンダーを病室に貼ろうとすると、「よく見えるように、もっとこっちに貼れ」と、指示をしていましたね。国政や私のことになると、不思議な力がみなぎっているように見えました。

私が政治家になってからは、私が一方的に祖父に近況報告をすることが多く、うれしそうに聞いていました。これは亡くなる2日前の病室でも変わりませんでした。

祖父は、子供や孫たちに囲まれながら、病気ではなく老衰で亡くなりました。家族としては思い残すことはありません。101年の人生を全うした、やりきったと言えるのではないでしょうか。

祖父の有名な俳句で、「くれてなお 命の限り 蝉しぐれ」というものがあります。祖父は最期まで、政治家としての命を燃やし続け、ミンミンと鳴き続けていたのでしょう。 


なかそね・やすたか◎自民党衆議院議員。1982年1月東京都生まれ、群馬県前橋市在住。慶應義塾大学法学部法律学科卒業、米国コロンビア大学大学院国際関係学修士号取得。JPモルガン証券勤務をへて、参議院議員中曽根弘文前橋事務所秘書となり、政治家の道を志す。2017年10月、衆議院選挙で自民党北関東比例区から初出馬し、当選。

文=初見真菜、督あかり

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