「ロン・ヤス」という確固たる盟友関係を築きあげ、型破りな政治的手腕を持つ中曽根。「風見鶏」と批判されながらも、透徹なセンスで状況判断をしつつ、理想を追い続けたその原動力とは──。また私人としては、どんな素顔を持っていたのだろうか。
最期まで祖父・中曽根康弘の姿を見守った孫は、中曽根が首相になった1982年に生まれ、いま国会議員を務めている。
総理大臣時代から晩年まで、祖父と過ごした時間について、孫であり、衆議院議員の中曽根康隆が回想した。
「康隆へ」祖父から差し出される記事の切り抜き
1988年小学校に入学した中曽根康隆(右)と祖父・康弘。総理大臣としては前年11月まで在任した
子どものころからよく祖父(中曽根康弘)の家には行っていて、野球を観ている祖父の肩を揉んだりしていました。物心ついた時には「中曽根康弘の孫」と言われるようになり、祖父は名の知られた人だという感覚はありました。コンプレックスを感じることもありましたが、高校生になると、その境遇を受け入れて自分の成長に変えようと思うようになりました。
私は高校生の頃、1年間アメリカに留学しましたが、帰国後に祖父と同じ屋根の下に住み始め、いろいろな話をするようになりました。私が部活から帰るとしょっちゅう、玄関に 「康隆へ」と祖父から新聞や雑誌の切り抜きが置いてあるのです。 内容は、安全保障や憲法についてのものが多かったかと思います。
正直、当時はあまり興味がなく、部活帰りで疲れきったなか一応目を通していたという感じでしたが、祖父に読んだことを報告し、その資料を元に話をすることは結構ありました。夜ご飯を一緒に食べ、新聞を読む祖父の横に並んで話をしていた記憶があります。内容は詳しくは覚えていませんが、祖父の政治家としての熱量を感じました。
高校生の頃、祖父にたまにゴルフに連れて行ってもらったのも印象深い思い出です。一緒に車に乗っていても、祖父は基本的にずっと新聞を読んでいるか、スピーチや政策についての文章を書いていました。前日の演説のカセットテープを聴いて、何かメモを取っている日もありました。
休日に孫とゴルフへ行くのに、頭の中では常に国のことを考えるか、自身の修養を積んでいた姿は強く印象に残っています。その姿勢は、生涯変わりませんでした。
よく「失ってからその大きさに気づく」と言いますが、私の場合は、失う前からいつもその大きさには気づいていました。だから常に吸収しようという気持ちで接していました。正直、一般的な「おじいちゃんと孫」という気持ちには最後までなりませんでしたね。
やはり家の中にいても、祖父は常に背筋が伸びてピシっとしている人でした。もちろん「おじいちゃん」の表情もありましたが、「大きな志を持った1人の大人」というオーラが出ていたから、孫ながらに圧倒されるような感覚がありました。