中曽根康弘回想録。国会議員の孫・康隆が明かした101歳の元首相、最晩年の姿

祖父・中曽根康弘に、2019年国会での活動を報告する中曽根康隆(左)


決断するため、常に頭の余白を作る

家庭内でも、祖父は常に背筋を伸ばして、無駄な時間を一切過ごしませんでした。総理大臣になっても忙殺されずに、本を読み、勉強していた。さらに、毎週末には寺で座禅を組んだり、水泳にも行ったりして、自分1人になって考える時間を作っていました。

毎年夏は軽井沢の別荘にこもって、趣味の油絵を描いたり、俳句を考えたりしていました。やっていること1つひとつに、知識の吸収や精神統一など、目的を見つけながら全力で取り組んでいた。見た目も行動も筋の通った、理由ある行動をしていたと思います。

政治家は決断する仕事ですから、決めるときには頭にスペースがないといけません。祖父は自分で、その余白を意図的に生み出していたと思います。

また、知識を吸収することが好きだった。私もあれほど勉強する人は見たことないですね。年齢に関係なく、いろんな人の意見を聞くのが大好きでした。

大学時代には、祖父から「ゼミのメンバーを集めろ」と言われました。「いまの若者が何を考えているのかを聞きたいから、お昼にカレーライスを食べながら意見交換をしよう」と。総理大臣経験者で当時80歳くらいの祖父が、20歳の学生の意見をテープレコーダーで録音しながら、メモを取りながら聞いていたのです。この姿勢はすごいと思いましたし、祖父の知識欲からきている行動なのでしょう。

中曽根康弘と孫・康隆ら
1985年祖父母と撮影。中曽根康隆は、祖父・康弘(右)に抱かれている

「大局さえ見失わなければ大いに妥協してよい」

祖父は常々「自分の身体に国家がある」と述べていました。これは、戦争で部下や弟を失い、焼け野原を見るという強烈な体験から、この祖国を復興しなければいけないと感じていたためです。それから政治家を志し、強い意志があったからこその発言だと思います。だから死ぬ直前まで「国が苦しいと、自分も苦しい」とよく言っていました。

群馬の材木屋の次男で、政治には関わりのなかった祖父は、自分の志ひとつで政治家になりました。28歳から総理大臣になると決めていたそうですよ。小派閥を率いる中で「風見鶏」だと批判を受けていましたが、総理になるには「風を読むこと」が必要であることも、よく理解しており、徳富蘇峰の「大局さえ見失わなければ大いに妥協してよい」がモットーでした。
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文=初見真菜、督あかり

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