左下に映るロボットが「OriHime」
通信技術の発達で、国境を超えた伝達は簡単になったが、「その場にいるような感覚」をもたらしたのは画期的だろう。「身近」をつくりだしたのだ。
OriHimeはもともとは病気や身体障害、高齢などが要因で移動制約を抱える人々の「分身」として開発された。サイズや形態は用途によって異なり、リモートワークやテレワークに最適化された机におけるほどの小型サイズから約1mほどのものまである。現在、月額レンタル制で展開されている。
しかし、なぜ若い結城が「分身」で「孤独」の解決を目指したのか? 実はその背景に、彼女自身の挫折がある。
“ソクラテスの問答”を仕掛ける父親
結城は数々の科学コンテストの賞を総なめした「天才少女」だった。 小学生の頃に取り組んだのが、カタツムリの研究だ。「とにかく可愛くて」と見た目から好きになったカタツムリを観察しているとき、ピーマンを与えたときに糞が緑色になることへ疑問を抱いた。物理学の教授だった母親は「じゃあ一緒に実験しようか」と、科学的実験の初歩を教えた。
「科学コンテストで賞をもらって褒められる成功体験を味わってから、調べることや観察自体が好きになりましたね」
さらに現在の結城を形成した要素として、両親の存在は欠かせない。思考の癖に関しては宗教哲学者だった父親の影響が大きいという。「物心がついたときからそうでした」と苦笑いしながら結城は振り返る。
「『今日は砂遊びをしたい』と言うと『なんで?』と必ず聞かれました。『お友達と遊んで楽しかったから』と答えると『なんで?』と、ソクラテスの問答のように、本質に辿りつくまで詰められるんです。でも研究とは『なんで?』を解き明かすことの連続。いつしか研究への抵抗感がなくなって、楽しいと感じるようになりました」
あらゆるものが彼女の研究対象となった。海辺に落ちているガラス片の色を落ちている場所ごとに比較したり、庭に突然生えたタンポポの奇形を観察したり。小学校、中学校に進学後も、好奇心は尽きるどころか研究はより本格化した。
病を機に「もうひとつの体」を求めるように
なかでも結城が強い関心を持ったのは、水だ。蛇口から流れる水の中に空気の柱が見えることに疑問を抱き、高校1年生から流体力学の研究を始める。
その結果を発表した「高校生科学技術チャンレジ(JSEC)」で文部科学大臣賞を受賞。さらにJSEC入賞者の中から選抜された結城は、アメリカで開催される世界最大級の科学コンテスト「インテル国際学生科学技術フェア(ISEF)」の出場資格を得た。
心待ちにしていたISEF参加だったが、出場は叶わなかった。突如、結核を患ったからだ。
結城は入院と療養で約半年もの間、家から外に出られなくなった。ISEFに行けないことは悔しかったが、それ以上に辛かったのが孤独だった。
「狭い世界に閉じ込められている感覚でした」と彼女は振り返る。
「学校に通えない、家族と旅行に行けない、会いたい人と会えない。病室の窓からは四季の移り変わりも感じられませんでした。精神的には元気だったので、『身体がもうひとつあったら』と強く願うようになったんです」
結核が完治した高校2年生のときにJSECへ再び出場。グランドアワード優秀賞を受賞しISEFに参加することになった。このときに、共同創業者である吉藤健太朗との交流が深まった。