そこで感じた違和感こそ、新しいことを始める入り口になるかもしれません。
若者研究に従事しはじめて8年。ウェブ調査やグループインタビュー、フィールドワークといったいわゆるリサーチ領域から、社会人と学生とのイノベーション共創コミュニティの運営まで、様々な活動をしてきました。
電通若者研究部の一員として彼らと接していていつも感じることは、やはり若い人たちこそが「最初に新しくなる人たち」だということ。例えば、シェアリングエコノミーや動画サービスの発展が報じられるはるか前から、若い人たちは「車は持たなくていい」「テレビは場所や時間が不自由だからあまり見ない」といった、年長者たちの既存の当たり前への違和感を発露し、思いもよらない新しい当たり前へのヒントを発していたように思います。
僕の若者論に関する講演を聞いて下さった方からよく「若者研究は、何歳から何歳までを”若者”と定義してますか?」と質問されることがあります。大まかには年齢の定義はもってますが、今考えるべき若者論の本質は「何歳なのか」だけでなく、車やテレビに発した違和感のように、「新しい価値観をどれくらい社会や年長者に見せてくれるか」にこそあるのではないかと思います。
様々なメディアや経営者は「今は激動の時代にある」と発信しています。変わらないといけない。新しいことをやらないと行き詰まりが見えている。前例にとらわれずに動いていく。このようなメッセージが雨後の筍のように方々から生まれてきている状態です。
電通ビジネスデザインスクエアの一員でもある私は、規模業態様々な企業との協働プロジェクトを通じて、そうした「変わりたい」企業の「NEWをDOする」パートナーになれたらと思っていますが、その最初の壁が「新しいことへの向き合い方」にあると感じます。新しいということは、これまでのやり方に起因するバイアスに陥ってしまっている人にとっては「すぐにはピンとこない要素が入っている」ということでもあります。
言ってみれば新しい考え方とは、それを最初に見聞きしたときにある一定の「?」を含んでいるということ。少しも「?」が起こらないなら、今までの感性で理解しきれてしまう、要するに「新しくないこと」なわけです。その「?」に対して、拒絶・排除の気持ちと、好奇心・ワクワクの気持ちの、どちらに重心を置いて向き合えるかが最初にして最大の分かれ道なのではないかと感じます。