──映画の道に入ったきっかけは?
小さい頃からウルトラマンやゴジラなどの特撮が大好きで、特撮の仕事に関わるのが夢でした。中学、高校になって、いろんな映画を見るなかで、黒澤明監督の映画に出会いました。特に「生きる」という作品は、エンターテイメント性があるのにメッセージ性が強く、感銘を受けました。ちょうど、大人たちは何を考えてこういう社会を作っているのか、生きるとはどういうことかを考えている時期で、ドンピシャでした。
自分もこんな映画を作りたいと、高校卒業後、東京に出て、新聞奨学生として新聞配達をしながら「日活芸術学院」という映画学校の演出コースに通いました。残念ながら学校はもうなくなってしまったのですが、2年間の映画学校時代にたくさんの自主映画を作りました。
部屋には機材のほか、学生時代に受賞した、西東京映画祭の優秀作品賞のトロフィーもあった。
映画学校の2年間は、「ガメラ」の撮影現場でインターンをしていました。卒業してからは、当時放送されていた「ウルトラマンメビウス」に美術助手として関わり、特撮シーンで登場する町のミニチュアなどを作ったりしていました。
下っ端なので仕事はきついし休みもほとんどない。不条理なことを言われたりもします(笑)。でも仕事はとにかく楽しくて。夢だった特撮に関わる仕事が、東京に来てすぐ叶ってしまって、なんて幸せなんだろうと思いました。
1年間の放送のなかで、時おり、「子ども向けだから」「こんなもんでいい」と感じる脚本やスタッフに出会うことがあって、その度に悲しくなって、だんだん自分で作品が作りたくなってきました。
21歳で「特撮の仕事をする」夢は叶いました。次は、「映画を作りたい、映画監督になりたい」という夢と、絵本が好きだったので「絵本作家になりたい」という、2つの夢を叶えたいと思いました。ウルトラマンの撮影が終わった後にもいろんな誘いをいただいたのですがお断りし、自分の作品を作ることに決めました。
西坂監督の自宅兼仕事場。ここで編集作業などをする。
監督として──「Tokyo Cowboys」との出会い
アルバイトをしながら機材をそろえ、作品を作っては自分のHPで発表することを続けているうちに、映画学校や新聞配達時代の先輩が声をかけてくれて、彼らの劇団のデザインや映像制作を手がけるなど、だんだん仕事として形になっていきました。それらが増えてきたところで、アルバイトを辞め、個人事業主として、映像とデザインの仕事をメインにするようになりました。
2014年から、東京を拠点とする多国籍映像制作チーム「Tokyo Cowboys」の自主映画に助監督として関わり始めたのですが、演出のアドバイスをしているうちに、プロデューサーのクリス・マッコームスが監督をやらないかと誘ってくれて。最近は監督として参加しています。彼らは積極的に海外の映画賞にエントリーし、ノミネートされたり受賞するなど、実績にもつながってきているのはうれしいことです。
ただ、次第にやっぱり自分の脚本で自分の映画が撮りたい思いが強くなってきて、何本かあった企画のなかで、自分の熱意、そして制作費など現実的な条件を考えて、映画「RAILROAD SWITCH」の構想がスタートしました。
2018年、Tokyo Cowboysで監督したコメディ映画『The Benza』が世界最大級のウェブ映画祭“Seoul webfest”で2つの賞を受賞