作者のクアン自身がメディアのインタビューで触れているのだが、この小説では、世代間の考え方の相違もテーマの一つとなっている。
曾祖父はオーバーシー・チャイニーズ銀行の創設者で、祖父はシンガポール人としては初めて西洋で医学を学んだ眼科医。父親はエンジニア、母親はピアニストという家庭に生まれた彼女は、シンガポールで祖父の死に立ち会ったことが小説を書くきっかけになったと語っている。
小説の中に登場する、祖先の来し方を顧みることがなく財産を無残に浪費する若者たち、忘れ去られていく古い価値観。それらは喜劇にはつきものの悲哀のパートだ。
さて、「アジアンズ」と言われて気になるのが日本人がどう描かれているのか、ということだとだが、はっきり言ってほとんど描かれていない。もちろん、それぞれの登場人物にふさわしいブランド名として、日産セダン、ホンダアキュラ、杉本博司のアート作品など。または、深センの偽ブランド品ショップにゴルフに行くような装いで訪れる日本人女性。
しかし、見逃してはならないのは、ところどころに遺跡や幽霊のように日本軍占領時代の面影があることだ。特に、医師であった今は亡きニコラスの祖父の昔の話として、占領時代にレジスタントとして生き延びたエピソードがごく短い記述で幻影のように描かれており、作者が小説を書く動機に結びついているように思える。
「アジアンズ」と言われながらも微妙な立ち位置でしてしか見ることができない日本人の立場に一抹の疎外感を感じながらも、部外者だからこそ作品を楽しむことができるのも確かだ。
余談だが、ワーナーブラザースがもし中国市場を狙って映画を作ったのなら、かなり厳しい道のりのように思える。原作ではシンガポールや香港同様に、中国本土への軽蔑の表現が散見される(もちろん、スノビッシュな登場人物に語らせる意図的なものであり、映画ではその表現は削られているが)。
しかし、「高慢と偏見」はテーマである。19世紀のジェーン・オースティンの同名小説、不朽の名作が示してくれるように、世代、家庭、生まれる場所によって誤解や偏見があることは今も昔も人間社会のどこにおいても変わらないことである。クレイジーリッチアジアンズでは、現代でも、変わることなくそれが人間の可笑しみであり、またそれを打開していくことが永遠のテーマであると思い出させてくれる。
多くの人種が混在するのはもちろん、テレビでは今も狂騒曲のようにトランプ大統領の話題が独占しているアメリカで大ヒットするのも、納得できるのだ。