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シネマの女は最後に微笑む

『ヘドウィグ&ザ・アングリーインチ』の劇中より(Photo courtesy of Fine Line Features/Getty Images)

7月2日、お茶の水女子大が、戸籍上は男性でも自身の性別が女性だと認識しているトランスジェンダー(以下、トランス女性)の学生を、2020年度から受け入れる方針を発表し、注目を集めた。日本女子大、奈良女子大他の主要女子大学も受け入れを検討しているという。

近年減少している女子大だが、社会にまだ根強く存在する性別役割分担が現れがちな共学に対し、構成員が女子だけであることから、男子の目を気にすることなく自立性や積極性を発揮し、何でも自分たちでできるという自信を育成するのに適していると、その存在意義を認める声は小さくない。

一方、男性身体を持って生まれながらも性自認は女性であるトランスジェンダーの女性はこれまで、戸籍上の女性より困難な社会的位相に置かれてきた。そうした観点からも、ジェンダーやセクシュアリティの研究を積み重ねてきたお茶の水女子大の今回の決定は、重みを感じさせる。

これに対してネット上では評価する反応が多かったが、反発もあった。「女性を自認していても男性の身体というだけで恐怖を覚える女子がいる」「女性と偽って入学する男が出てくるのでは」など。

だがそうした不安が生まれるのは、社会に女性差別、女性への性暴力が存在するからにほかならない。そして、そんな社会だからこそ、これまで多くの局面で被差別側であった女性とトランスジェンダーの女性が、共に学ぶことの意義もあると前向きに捉えるべきではないだろうか。

「男/女」と「東/西」

今回取り上げるのは、『ヘドウィグ&ザ・アングリーインチ』(ジョン・キャメロン・ミッチェル監督、2001)。オフ・ブロードウェイで上演されて2年半のロングラン・ヒットとなった同名ロック・ミュージカルの映画化で、舞台と同様、監督が脚本を書き主演を勤めている。

冷戦時代、東ベルリンに生まれた男の子が運命に翻弄され、トランスジェンダーの女性ロックシンガーとして数奇な人生を歩んでいく姿が、エモーショナルなグラムロックと独特のユーモアの中にシニカルな視線を散りばめながら描かれる。

ドラマの形式は、現在進行形の時間軸に、主人公ヘドウィグの幼少期から現在に至るまでの回想が断片的に挟まれるという、コラージュ技法で成り立っている。これは、ヘドウィグが後に自身を男と女の「つぎはぎ(コラージュ)」とみなす認識と重なり、さらに性の「男/女」という分断と政治の「東/西」分断とが重ね合わされる。

ドラマの形式と内容のこの高度な一致の中で、さまざまな対立項がヘドウィグを中心として徐々に撹乱されていくさまが見どころだ。

ヘドウィグの出自は、小児性愛者らしいことを匂わされるアメリカ人の父、社会主義者で強権的なタイプであるドイツ人の母と、一筋縄ではいかない設定。

ラジオから流れてくるアメリカの音楽を聴き、「自由の国アメリカ」に憧れを抱くようになった青年ヘドウィグを誘惑し支配するのは、アフリカ系アメリカ人でゲイのルーサー軍曹だ。

この時点でヘドウィグの性自認ははっきりとは描かれないが、男性性はあまり感じられず、何より愛に飢えた状態であったことは確かだろう。そのためか結局ルーサーに精神的に依存することになり、言われるままに性転換手術を受け、パスポートを偽造しての渡米を受け入れる。だが手術は失敗し、ペニスは1インチ残ってしまう。

文=大野左紀子

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