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2018.04.12 08:30

廃業寸前からの復活 なぜ京都の老舗メーカーに世界中から依頼が殺到するのか


三寺の父・康廣が向かったスクラントンは、かつて炭鉱で栄えた町だ。ここに家族代々、「魔法の糸」と呼ばれる銀メッキ繊維を製造する会社があった。日本の大企業も独占販売権を求めてこの会社に赴くのだが、日本での権利を得たのは意外にも康廣だった。

「私の父はステーキハウスに連れて行かれ、大量のステーキを出されても全部食べたそうです。すると、『日本人は食べられませんと言って捨てるのに、お前は全部食べた。アメリカ人になろうとしている』と、認められたそうです。

銀メッキ繊維は特許ではなく、作り方のノウハウです。つまり、自分たち家族と同じ気持ちをもとうとしない者にはノウハウを教えたくないと言われ、同じファミリービジネスでもあり、ステーキを平らげた父親に権利が与えられたのです。ちなみに、父はステーキをこっそりトイレで戻していたそうですが」

康廣は独占契約を結ぶと研究開発に取り組み、メーカーと抗菌の分野を開拓した。ヒットしたのが「消臭靴下」だ。その後も大手企業と共同で、宇宙飛行士用の下着や心臓ペースメーカーを電磁波から守る防護服などを開発した。


2002年、銀メッキ繊維の総合ブランドとしてAGpossを商標登録。抗菌分野を切り開き、靴下からスーツ裏地などに使用された。

一方で、01年1月、朝日新聞京都版に「立命館大学4年の三寺歩さん(23)」を紹介する記事が載った。まだアマゾンが日本に上陸する前、三寺は友人たちと、海外在住の留学生やビジネスマンに書籍情報を提供し、注文に応じるサービス「ねっとほんや」を始めた。30万冊のデータベースを1年がかりでつくり、「利益よりも顧客との交流を大切にしたい」と、掲示板に書き込みができる。

三寺に企業経営を目指していたのかと聞くと、再び予想外の答えが返ってきた。「当時、私たちは76世代と呼ばれ、76年生まれの世代が起業する理由は一つです。就職氷河期だからです。大学の卒業生名簿を見ると、家事手伝いや非正規雇用が多く、ネット書店は危機感から始めたのです」。

実家は斜陽産業、本人は氷河期世代。生まれた時代の不運に加えてもう一つ影を落とすのが、父との確執だ。豪快な性格の康廣は、「銀メッキ繊維は世界の市場を取る」が口癖だった。しかし、「父はいつも夢みたいな大きなことばかり言うのに、会社は大きくならなかった」と三寺は言う。
 
大言壮語のロマン派の父と、氷河期世代の現実派の息子。家で顔をあわせると、「町工場の息子なんやから、製造業に就職しろ」と言われ、息子は心のなかで「アホか」と呟く。ネット書店を始めた三寺に父はこう言ったという。

「お前のやっていることは、ままごとや」

靴下メーカーとソニー

それから13年後、三寺が実家に戻るきっかけは、父からの電話だった。東京で働いていた三寺に、電話で父はこう告げた。「もう資金がショートする。路頭に迷うことになる」。
 
三寺は「助けるつもりはありませんでした」と述懐するが、その日は仕事が手につかなかった。夜になっても頭のなかを37年間の記憶が駆け巡る。外資系に移り、成果報酬によって人並み以上の年収を手にしている。逆に正月に帰省するたびに故郷は衰退していく。 
 
父の姿は日本の中小企業が陥る典型だった。銀メッキ繊維は大手繊維メーカーに売れて、売り上げが立った時期もあった。しかし、自前の最終製品を持っていなかったため、大手メーカーの生産スケジュールに左右され、主体的な事業展開ができなかった。

また、康廣は用途開発を続けたが、市場を作ることはできなかった。さらに抗菌消臭という分野を切り開いたものの、「抗菌剤」の登場によって価値を下げていく。製造業の多くが悩むように、高度な技術をもちながらも、自分たちの手で技術と客をつなげる価値を創出できなかったのだ。

そして05年、もっとも売り上げが多かったカネボウで粉飾決算が発覚。元社長らが逮捕され、取引先最大手のカネボウは消滅していくのだ。
 
祖父が起こした会社によって、自分は大学まで出してもらった。その会社が潰れようとしている。“育ててもらった分のお金を返すときがきたか”。再就職先なら何とでもなる。「よし、行くか」と決意した三寺が連れて行かれた場所が、冒頭で紹介した変わり果てた会社であった。
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文=藤吉雅春 写真=佐々木 康

この記事は 「Forbes JAPAN ニッポンが誇る小さな大企業」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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