「便利、スピード、快適」を捨ててまで手に入れたい大切なこと

洗濯機を手放し、洗濯桶と洗濯板、バケツを使い毎日手洗いで洗濯をしている。

東京から長野に移住して、すぐに冷蔵庫を手放したことは、前回の記事でも書いた。大多数の人にとっては必要なものかもしれないが、私には必要のないものだった。それだけのことだ。そして、家電製品は洗濯機しか残っていなかったのだが、その洗濯機も手放してしまった。

なぜ洗濯機をやめたのか

家族4人に加え、犬2匹、猫3匹という大家族である。ペットはまあいいとしても、家族分の衣類やシーツを洗うなんて、やめた後でも無理だ、と思う。さらに、ミニマリストゆえ服はたいてい2枚しか持っていない。下着も2セット、靴下も2足。つまり、毎日洗濯をしないと、明日着る服はないのである。

そういった状況であるにも関わらず、手洗いで洗濯をする日々が始まった。洗濯桶と洗濯板、バケツ2つ。まず洗濯板で、石鹸をつけた洗濯物をごしごし洗う。そしてバケツですすいで、さらに仕上げ用のバケツですすぐ。これが、笑えるほど汚れが落ちるのである。

バケツの水は何度も変える。それでも、斜めドラム型の洗濯機(4人家族を目安とした8kgサイズ)は1回に70Lほどの水を使うようだが、おそらく半分くらいで済んでいると思う。そもそも、お風呂上がりに、残り湯を使うことにしている。いや、水や電気の節約にもなるが、節約のために洗濯機をやめた訳ではない。

では、なぜ洗濯機をやめたのか。最後のひと押しをしたのは、娘が通う小学校の前の林が、突然、伐採されてしまったことだ。役場へは山林の天然更新、つまり森林の再生を図るという届け出が出ているが、また太陽光発電施設ができるんだ、ということをみんな知っている。

住民説明会も開かれない。開かれたところで、同意を得られるはずもない。その林は、夏になるとカブトムシがたくさんいて、子どもたちは競うようにして林に入り、夏を過ごしていたから。今の子どもたちの親の世代も、さらに親の世代も、おそらくずっと。

スイッチひとつで電気が使える現代で、電気というエネルギーがどこで、どのようにしてつくられているのか、その正体を気にすることもなく毎日を過ごしてきた。福島の原発事故が起きるまでは。そして自然エネルギーに代替していくのはいいけれど、林を切り開いてまで太陽光パネルが並んだところで、また別の誰かが儲けるだけの話だとも思う。

住民説明会をしないような心のない業者ばかりではないことも知っているが、すごく悔しかった。伐採されてると気づいたけれど、それを止めるだけの力が私にはなかったから。

「腑に落ちる」ことを大切にしたい

私にできることは、使う電気を最小限にすることくらいだ。だから、私なりの社会へのちょっとした反抗なのである。そうした反抗心と、少ないモノで暮らしたいというミニマリストの性分をこじらせた結果が、洗濯機をやめる、ということなのである。

じつは、洗濯機のとれないカビが気になっていたし、洗濯機の下も気になっていた。洗濯機を使うと洋服についた犬の毛がとれなかったりして、便利さと引き換えにしていた嫌なことも、きれいに解決できた。心配なのは脱水だったが、ちゃんと絞れば、洋服からポタポタ水が垂れるというほどでもなかった。

社会でも組織でも、おかしいと思うことがあったとしても、あらがわずに普通に生きていると、見て見ぬ振りになるどころか、自分もそのおかしいことを後押しする流れに組み込まれてしまうのではないか。だから、自分の手で洗濯をする。手で洗うのはやっぱり大変だからおすすめはできないが、私はやめてよかったと思っている。周囲がどうこうではなく、自分自身にとって「腑に落ちる」ことを大切にしたい。

連載:里山に住む「ミニマリスト」のDIY的暮らし方
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文・写真=増村江利子

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