ミニマリストゆえ、もともと家電はほとんど持っていなかったが、東京から長野に移住して、すぐに手放したものが冷蔵庫だった。
標高1000mという寒冷地ということも背景にあった。真夏は、日中はさすがに暑くなるが、クーラーが欲しいというほどでもない。そして真冬は、食材やビールが凍らないように冷蔵庫に入れる……、寒冷地とはそんな具合だ。
冷蔵庫代わりに使っている、昭和初期の冷蔵庫。近所のおじさんからいただいた。氷もないので、ただの収納庫である。
冷蔵庫がないからといって、特別なことは何もない。その日と翌朝に必要な食材で、必要なものを買う。つまり、買いだめをしないというだけのことである。野菜は冷蔵庫にいれなくても保管できる。いただきものの野菜がたくさんあるから、スーパーで買うのは納豆と卵くらいだ。野菜はもちろん、納豆も卵も、そして醤油や味噌といった常備しておきたい発酵食品は、冷蔵庫にいれなくてもいい。
やめてみると、なんてバカバカしいものを所有していたのかと思う。冷静に考えると、冷蔵庫はとんでもない大きさだ。なぜダンボール1個分も肉を貯蔵しておく必要があるのか? そして夜中に聞こえてくる、ブーンという音を聞かずに済む。
冷蔵庫をやめてみて、ふと思ったのは、これは「その日暮らし」に近いんじゃないかということだ。「その日暮らし」と聞くと、残念なことにいいイメージがまったく浮かばない。貧しいこと、ダメなこととして語られることが多いように思う。
でも、「その日暮らし」に近づけば近づくほど、持ち物は少なく、シンプルになっていく。
料理に置き換えてみるとどうだろう。レシピを先に考えて、そのレシピを忠実につくろうとすると……、例えばビーフシチューをつくろうとすると、ビーフが必要になる。そうではなくて、今あるものでつくれる料理をつくる、と考えてみる。ビーフがなくても、野菜のシチューやスープでいいじゃないか。
ちょっと飛躍した解釈かもしれないが、「その日暮らし」とは、その日を生きるのにギリギリの収入しかないことではなくて、今いる自分、あるものに感謝をして、創意工夫して生きていくリテラシーである、と捉え直すことが必要なのではないか。
今、私たちは「その日暮らし」から縁遠い社会に生きていると思う。でも、「その日暮らし」を手に入れたら、いろんな肩の荷が降りて、きっと楽になると思う。だから「その日暮らし」を取り戻して、生きることをもっと楽しんでみたい。
【連載】里山に住む「ミニマリスト」のDIY的暮らし方
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