尾山基、現アシックス社長。狙う市場に合わせ、アシックス、オニツカタイガー、アシックスタイガー、ホグロフスという4ブランドを使い分け、2016年の海外売上高比率は74.6%と、名実ともにグローバルブランド企業へと押し上げた立役者だ。
尾山はもともと商社勤務だったが、趣味のバスケットボールが縁で、アシックス創業者の故・鬼塚(おにつか)喜八郎の長女と出会い結婚、1982年に同社に入社した。鬼塚には息子がいなかったが、当時は「親族を後継者にはしない」と言明していたという。
「鬼塚の意志ははっきりしていましたが、私は親族とは思っていなかった。直系ではないですからね(笑)。そういう意志があるなら、かえって思い切りやれるなと思ったんです」
86年、鬼塚は娘婿の力を試すかのように尾山を渡米させる。米国は30億円の赤字を出したばかりで「正直、決して気持ちの良い転勤ではなかった」が、マネジャー兼ディレクターとして90年までの駐在中、一度も売り上げを落とさなかった。しかし帰国後はこれまた社の本流ではない、ウォーキング事業部に配属された。
「マイナスのところばかり歩かされてきたんです(笑)。でもそれらを収益の柱に育てることで、自分の存在価値を示してきました」
その言葉どおり、尾山はランニングシューズの機能性をビジネスシューズに生かした「RUNWALK」を開発するなどし、9年で30億円から94億円にまで業績を伸ばした。
しかし、アシックス全体としては98年度まで7期連続の赤字を計上、株価も一時は60円まで落ち込む事態に陥っていた。国内でのスキー・ゴルフ用品市場の衰退と学生向けアスレチック用品の不振が主な理由だ。95年には鬼塚が経常赤字の責任を取り、代表権を返上している。
「ナイキがエアマックスでスニーカーの一大ブームを巻き起こしていたとき、こちらは倒産危機ですから。『アシックスはスリーピング・タイガー(眠る虎)だ』とまで揶揄されて、非常に悔しかったですね」
人員削減、ゴルフ用品撤退などを行うも焼け石に水。難局に直面したアシックスは「打開策は原点回帰しかない」と、ランニングシューズに経営資源を集中する戦略を打ち出した。これが功を奏し、独自の衝撃緩衝材を搭載した比較的値段の高いモデルのランニングシューズが、04年、米国で販売100万足を超えるヒット商品となる。