パリの治安はここ数年かなり良くなってきているが、それでもうつむいて携帯画面を見ながら歩くのは危険だ。ディスプレイグラスは目が疲れるので好きではないがつけたまま歩く。ヘッドセットの方は今日に限らずいつも耳に入れたままだ。
シャルル・ド・ゴール空港の第一ターミナルは、中心が広い円筒状の空洞になっているドーナツ状の建物で、空洞部分を透明なチューブで覆われたエスカレーターが交差する独特な構造になっている。香里奈が3階から2階に向かうエスカレーターに乗ると、すぐ後ろからエスカレーターの幅いっぱいの大きなスーツケースをいくつも持ったアラブ風の家族連れが続いた。エスカレーターはかなり古く、チューブの中ほどまでくるとガタガタと揺れるのが足元に感じられる。
そのとき突然、「ピィ、ピィ」と鳥の鳴き声のような電子音がヘッドフォンから流れた。
一瞬の混乱のあと、それが夫のセンサーをレシーバーが感知したというシグナルだと気付いて香里奈は心臓が喉元にせり上がってくるような気がした。とっさに振り返ったがそこには家族連れがいるだけだ。香里奈の前には2階まで誰もいない。ハッと気づいて透明なチューブ越しに外を見ると、交差する上りエスカレーターがちょうど真下を通ったところだ。目をこらすと、その中に夫と同じような髪の色、肩の形の男性の後ろ姿が見える。
香里奈は一瞬エスカレーターを逆行しようとしたが、後ろの家族連れの間を通り抜けるのは無理だ。そのまま急いで2階まで駆け下り、上りのエスカレータで3階に行く。もうどこにも夫らしき人の姿はない。やみくもに走り出したい衝動をこらえて、香里奈は空洞部を囲む3階の回廊を足早に歩く。もしかしたらもう一度シグナルが鳴るかもしれない。
ぐるぐると歩き続け、何周したかもわからなくなったところで立ち止まって、香里奈は空洞部のエスカレーターを眺めた。夫がその気になればいつでも私に連絡できる。そうしないのにはきっと何か理由があるのだ。
こんな近くにいることがわかっても私にいまできることは何もない。交差するエレベーターのチューブの中に、上下左右に移動していく人達が見える。今どれほど近くにいても彼らの人生はとても遠いところにある。夫と私の人生は本当に重なっていたのか、それとも私がそう思っていただけなのか。
香里奈はそんなことを考えながら自動運転車の待つ出口へと向かった。
忙しい3日間が始まる。
渡辺千賀◎在シリコンバレー。Blueshift Global Partners社長、経営コンサルタント。技術関連事業での日米企業間アライアンスと先端技術に関する戦略立案を行う。現地の日本人プロフェッショナルを支援するNPOの代表も務める。