香里奈はディスプレイグラスを外して席に深く座りなおし目を閉じた。どうして夫の夢など見たのだろう。そもそも、どうして夫はいなくなったのだろう。お互い28歳で結婚してから7年、ずっとうまくいっていたはずだ。夫がいなくなった日も、普段通り2人で朝食を取った。
「会社でクライアントと会議があるんだ」
そう言って出て行ったきり夫は戻ってこなかった。翌朝一番に香里奈は彼の会社に行き、事情を話してオフィスに入れてもらった。机の上には携帯やラップトップ、財布など全ての持ち物があり、マグカップのコーヒーは冷たくなっていた。
警察と一緒に見た会社のセキュリティカメラには、まだ明るい間に席を立ちそのまま廊下を歩いて社員用のドアから外に出て行く夫のが姿が映っていた。その素振りには特に慌てた様子もなく、明らかに自分の意思でどこかに行ったようだ。それっきり生きているのか死んでいるのかもわからない。電子通貨も、飲食や移動といった基本的な行動に必要なサービスのアカウントもまったく利用されていない。
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飛行機がパリに着くと、夢で見た情景の通り人々が立ち上がった。香里奈もディスプレイグラスをかけショルダーバッグを手にしながら、「アヴィ、これから3日間の予定を出して」と言うと目の前に予定表が投影された。サンフランシスコを出る前に、パリの投資家やベンチャーとのミーティングを設定するようアヴィに指示を出しておいた。香里奈が飛行機に乗っている間にスケジュール調整がされており、予想どおりスケジュールはびっしりだ。
香里奈は、その小ぶりな見かけにしては重みのあるショルダーバッグを肩にかけて機内から空港に出た。バッグが重いのはリカに作ってもらったレシーバーボックスが入っているからだ。
夫は子供の頃から遺伝性の糖尿病を患っており、人工膵臓とも呼ばれるシステムを常に身につけていた。システムは皮下に埋め込んだ血糖値センサーとインシュリン投与装置からなり、センサーが計測した血糖値のデータは無線で投与装置に送られる。この無線は数センチ程度しか届かない微弱なものだが、それを5メートル離れても受信できる特製のレシーバーをリカに作ってもらったのだ。
「そんな近くにいたら自分の目で見えるじゃん」とリカは言ったが、もしかしたら自分が寝ている間に夫が家に何かを取りに帰って来るかもしれない、と香里奈が言うと、リカは、「それで香里奈を起こさずにいなくなるようなダンナを探すわけ? 意味不明」と呆れたように言いながらも、オープンソースのハードウェアパーツと3Dプリンタでレシーバーを作ってくれた。
意味不明なのは香里奈もわかっている。でも、それくらいしかできることがなかったのだ。一昔前のラップトップサイズのそのボックスは重いと言っても2キロほどしかなかったが、それでも肩にかけるとストラップが食い込む。
香里奈の持ち物はこのショルダーバッグだけだ。チェックインした荷物が出てくるターンテーブルの周りには大勢の人たちが立っていたが、それを横目に香里奈は出口に向かった。パリで必要なものは全て宿泊先に届いている。トラベルサイズの消耗品、レンタルの服や靴、そういった旅先で必要な品をパーソナライズして届けるサービスを使い始めてから出張は楽になった。
日にちと宿泊先を告げるだけで行き先の気候やトレンドに適したものが全部揃っている。ユーザーの好みや利用履歴をもとにそれぞれの都市のコンシェルジェが品揃えをするのだが、パリの香里奈のコンシェルジェはスタイリストも兼業するだけあって毎回センスが感じられた。これも香里奈の投資先のベンチャーのサービスで、2年前に香里奈たちが投資した時はニューヨークだけでサービスを提供する小さなベンチャーだったが、今では世界60カ国にまで広がった。