高校進学と同時に五島列島の親元を離れ、下宿を始めた。下宿先の2畳1間には、机と椅子、小さな収納があり、夜は押し入れの上段で眠る。高校生や大学生、大工、左官など約20人が集まる大世帯だ。
育ち盛りの男子ばかりが集まる下宿だ。生存競争は苛烈を極めた。カレーライスが夕食に出ると、奪い合うように飛びついた。「出遅れたら、夕食がなくなる。献立を事前に確認して備えました」
生まれや育ち、境遇の異なる人との共同生活だ。価値観や習慣の違いから、喧嘩も日常だった。隣室の社会人とは生活時間が合わず、騒音に悩んだ。古川が、「少し静かにしてください」と申し入れると、一瞬、空気が張り詰める。多感な年頃の3年間、多様性の中で生きることを学んだ。
古川は流転の少年時代を送った。県庁勤めの父の都合で、数年おきに転校を繰り返す。ただ、転校のたびに変わる環境に対しては、戸惑いよりも好奇心が勝った。
「いま思えば、新しい環境でそれまでにない価値観に出会うことを、楽しんでいました」
転校先で出会った友人を観察し、自分にないよさを見つけると、それを真似してとりいれようと努めた。それを古川は、地元・長崎の名物料理「ちゃんぽん」に例える。
「せっかく多くの人に出会い、色々な経験ができるなら、積極的に取り入れた方が面白いし、おいしい」
九州大学卒業後は「色々なことを経験したい」と、三井銀行(当時)に入行した。バブル経済前の1979年のことだ。その後の37年間、日本経済と軌を一にするように、古川の世界も開けていく。