連載第1回は、谷崎潤一郎が7年8カ月住み、そのままの形で60年近く保存されている「石村亭」を訪問した。
79歳で亡くなるまで、実に43回。谷崎潤一郎は引っ越し魔だった。
大正12年9月、37歳の谷崎は箱根で関東大震災に遭遇し、関西に移住。昭和31年12月、70歳で熱海に転居するまで、京都には都合6カ所住んだ。そのなかでも谷崎がこよなく愛し、庭園まで含めて当時のまま保存されているのが、「石村(せきそん)亭」である。
ここは明治40年ごろに商家の隠居所としてつくられた建物だ。戦後、南禅寺下河原町の白川沿いの邸宅に住んでいた谷崎は、少し広い家を求めて、昭和24年4月にここへと転居する。邸には母屋、離れ、茶室、洋館があり、回遊式の日本庭園がそれらを囲んでいた。
谷崎は「潺湲(せんかん)亭」と名付け、『少将滋幹(しげもと)の母』、『潤一郎新訳源氏物語』、『鍵』などの代表作を精力的に執筆。交流のあった志賀直哉、吉井勇、武者小路実篤などの文人も足繁く訪れた。
しかし庭に経費がかさむこと、高齢で高血圧症を患ったことから、谷崎は避暑・避寒に利用していた熱海の別荘に移り住むことを決めた。
いくつかの料亭や旅館などが購入に名乗りを挙げるも、「京都に来たときに気軽に見にいきたいから」と却下。妻が日新電機の常務夫人と同級生という縁で、この佇まいをそのまま維持することを了承してくれた同社に接待寮として譲り渡すことにした。
その際、会社の施設として潺湲亭は堅苦しいだろうと、石村亭の名を考えたという。離れてのち、よほど愛着があったのだろう、最初の口述筆記小説となる『夢の浮橋』では、主人公の住む「五位(ごい)庵」としてこの邸を登場させている。
譲渡されて2016年で60年。日新電機はいまも庭の手入れや家のメンテナンスを怠らず、社の迎賓館として国内外の賓客をもてなしている。バブル崩壊後は保持に難色を示す声もなくはなかったが、「日新電機がつぶれてもなお石村亭は手放すな」という役員の鶴の一声もあり、谷崎との約束を守り通してきた。1910年創業、京都ではようやく“老舗”の仲間入りをした企業の心意気を、ここに見る。
明治末期から昭和初期にはやった近代数寄屋建築の母屋にある「次の間」。
庭に面した障子戸から直接庭に下りて、茶室へ行くことができる。
4枚のガラス窓から見える風景は、それぞれ別の絵のように見えるから不思議だ。
母屋の「主室」にある床の間。
掛け軸は武者小路実篤筆、花は谷崎の好みを知り尽くしていた華道家・五島華修(ごしまかしゅう)の愛弟子、藤本三喜子による。
来賓があった際には、この部屋で京の仕出し料理を振る舞うそうだ。
離れの「書斎」には6畳と8畳の和室が二間あり、谷崎はそれぞれ仕事場と昼寝部屋として利用していた。
昭和28年には東側に洋室を増築し、仕事上の客をこの部屋に迎えた。椅子とテーブルは当時のもの。
庭には滝が配置され、添水(そうず。「ししおどし」のこと)を通って池に流れ落ちる。
水の流れと音を楽しむ構成で、平安神宮や南禅寺界隈の邸宅の庭を手がけた植治(うえじ)一門の優れた庭師が関わっていたと伝えられる。
書斎に展示される谷崎の希少な初版本。
書斎の玄関。譲渡当初はなかったが、日新電機が「客を泊める用心のため」と谷崎の許可を得て改築。
扁額(へんがく)には「潺湲亭」とあり、これは谷崎のたっての頼みを引き受けて、中国の画家・篆刻(てんこく)家、銭痩鉄(せんそうてつ)が揮毫(きごう)した。
庭から見た母屋の縁側。母屋の主室は庭に面して回り廊下、欄干があり、外にガラス戸が入っている。
眺めがいかにも御殿風で、平安朝好みの谷崎が気に入っていた。
企業名:日新電機株式会社
所在地:京都府京都市右京区
設立:1917年(創業1910年)
事業内容:電力機器事業、ビーム・真空応用事業、新エネルギー・環境事業、ライフサイクルエンジニアリング事業
売上高:1,070億9,000万円(2015年3月期)
従業員数:連結4,845人(2015年3月末)