北米

2024.06.30 14:00

米ルイジアナ州、「モーセの十戒」の教室掲示義務化で生じる厄介な問題

Getty Images

また、「安息日を守ること」という戒律についても、「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も」という部分(出エジプト記20章10節)は省略されている。
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さらに、聖書にはさまざまな翻訳があるが、この州法はそれらを無視して、欽定訳聖書(イングランド王ジェームズ1世の命令で1611年に翻訳された聖書)にこだわっている。ところが、この欽定訳については必ずしも正確とはいえないとされている(たとえば多くの学者は、欽定訳における「Thou shalt not kill」について、「Thou shalt not murder」という訳の方が適切だと考えている[murderは「意図的な殺人」の意味])。

ルイジアナ州の生徒たちが読むことになるのは、ルイジアナ州議会バージョンの聖書だ。過激な書き換えはないとはいえ、厄介な前例をつくることになる。私たちは、立法府による聖書の編集を歓迎すべきなのだろうか?

この問題にはすでに決着がついていると考える人もいるだろう。そのとおりだ。米最高裁判所は1980年、ケンタッキー州が成立させた同様の法律を違憲と判断している。しかし今回、法案提案者たちは法律の新たな判例を挙げることで、異なる判断が出ると期待しているのかもしれない。
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1980年以降、最高裁は変化している。これらの問題の関係者も様変わりしている。市民権的な訴訟に加えて、他の宗教団体も自分たちの聖典を反映させるよう求めてくるかもしれない。悪魔を崇拝するサタニック・テンプルさえも、分け前を要求してくるかもしれない。

フロリダ州のロン・デサンティス知事のように、こうした問題を解決するには一部の団体を正当な宗教と認めなければよいのだ、と主張する議員も出てくるかもしれない。

しかし、それは解決策ではなく、より大きな問題を引き起こすだけだ。私たちは、どの宗教が「本物」であるかを政府機関に決めてほしいだろうか? 私たちは、その時代の政治的な要請に合わせて、立法府が聖書を書き換えることを望んでいるのだろうか?

特定の宗教を教室に持ち込む試みは、すべて同じ問題を引き起こす。それは、どの宗教を教室に持ち込むのか、そして、どのように持ち込むかを、誰が決定するのか、という問題だ。

forbes.com 原文

翻訳=ガリレオ

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