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2024.05.11 17:15

【追悼 ポール・オースター】「入れ子構造」が誘う思索的興奮─読み返し友と語ろう

この間違い電話がきっかけで、主人公のもとには謎めいた人物が訪れ、不思議な依頼をしてくる。それをもとに自分が自分としてあるような実存を揺るがすような事象に巻き込まれていく。読者は読み進むうちに、非日常的で薄気味悪い感覚を味わうことになる。

そして三部作3作目の『鍵のかかった部屋』。

<いまにして思えばいつもファンショーがそこにいたような気がする。彼は僕にとってすべてがはじまる場であり、彼がいなければ僕は自分が誰なのかもよくわからないだろう>(柴田元幸訳)

そんな書き出しにあるように、本書は主人公の幼い頃の友人が大人になって失踪したというところから物語がはじまる。主人公は小説家になりたいと思う新進気鋭の若手評論家で、彼に伝えたのは友人の妻。友人は作家ではなかったが、大量の原稿を書き残していた。そして、主人公と長らく交流がなかったが、自分に何かあったときには主人公に連絡し、原稿を見せるように言い残していた。主人公は友人の妻に会い、その言伝を前に踏み出していく──。

冒頭の骨格だけ書けば、物語は(他2作よりも)具体的でわかりやすい。だが、三部作の最後を飾るように、本書はダイナミズムと不条理が混在し、読み進むほど人の心の難解さ、不可解さに直面していく。そして、ページをめくっていった最後には、読み手は言葉を失う境地に投げ出される。私自身、読み終えたときの衝撃は忘れられない。それは呆然としか言えない感覚だった。

振り返ると、三作はどれも誰かのことを知ろうと動き出すきっかけがある。にもかかわらず、その相手を知れば知ろうとするほど、対象は次第に曖昧になり、混沌とする。さらには、自分が自分だと信じる自らの存在さえ揺らぐようになる。理解できない相手と理解できていると思っていた自身の不確かさ、その不条理さに強力な魅力があった。

「形式的な特性」を超えて


しばしば指摘されることだが、オースター作品にはいくつか特性もある。

たとえば、初期作品における探偵小説の形式。前述の三部作も含め、「探偵小説を借りた」と本人もエッセイで説明している。ある依頼があり、その謎を解明しにいく。実際、以後の作品『リヴァイアサン』『幻影の書』などでも、ある謎に出くわし、その謎を明らかにしていく。そんなベクトルが少なくない。

あるいは、オースター自身と思われる人物(同じ氏名)が作品に登場したり、ある作品の名称(「赤いノートブック」など)が別の作品で出てきたりと、自己言及を駆使しながら、真意や真相、創作と現実を不明瞭にするのも特徴の一つだ。

また、作品でもエッセイでもオースターは「偶然」というものを非常に好んでいた。よいことであれ、悪いことであれ、偶然の出来事のおもしろさを大事にする。その関心の広がりは、自身の創作作品を超えて、読者からの体験談──ちょっとした出来事、普通ではない実話──を集めた作品『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』にも発展した。

だが、こうした形式的な特徴が真にオースターたるかと言えば、そうではないだろう。独特の形式や特性が作品の魅力を高めていた可能性は否定しないが、それだけでオースター作品というものが成立したわけではない。

知らぬうちに集まっていたオースター関連書籍や切り抜き(筆者蔵)。

知らぬうちに集まっていたオースター関連書籍や切り抜き(筆者蔵)。

読者がオースター作品に求めるもの


では、オースターの読者は何を求めて、オースター作品を読むのだろう。

あらためて考えると、二つ思いあたるものがある。

一つは、不条理だ。世の中にはどうしても理解できない人がいる。あるいは、自身は理解したと思っていても、実際にはまったく理解できていなかったということもある。相互理解とは幻想であり、人は他者を十全に理解できないのではないか。そんな疑念が(とくに初期の)オースター作品には強く漂っている。不条理は『審判』(カフカ)や『異邦人』(カミュ)から受け継がれる純文学の伝統だが、理解ができない、あるいは理解が拒絶される先にあるものをオースターは書こうとし、その曰く言いがたい苦みに読者は浸ろうとしてきたのではないか。

もう一つはストーリーテリングだ。

じつは、原著を見ても、オースターの文章は非常に平易だ。難解な単語、むずかしい文体は使われず、中高生の英語レベルの言葉で記述されている。たとえば、『オラクル・ナイト』の冒頭はこう書かれている。

<I had been sick for a long time. When the day came for me to leave the hospital, I barely knew how to walk anymore, could barely remember who I was supposed to be.>
(私は長い間病気だった。退院の日が来ると、歩くのもやっとで、自分が何者ということになっているかもろくに思い出せなかった)(柴田元幸訳)

それでもなお、数行読むと、オースターの風景が立ち上がり、オースターの小説世界が広がっていく。ややこしい世界だが、スムーズに読み進められるのは、ストーリーテリングがすぐれており、魅力的だからだ。読者はこの語りのうまさに乗せられて、作品の中に入っていき、作者と対話するように思索を深めていく。その行為は孤独だ。けれど、楽しい。書くこと、読むこと、それをまた書くという入れ子構造的な関係性はオースター作品で繰り返し語られていたテーマでもある。それは、冒頭のXの投稿でも紹介したように、<ものを読むという行為は二人の人間のコミュニケーションを可能にする>からだ。

読み終えた瞬間、その感想を誰かと語りたくなる本がオースターには多い。私自身そうだったし、私の友人も読み終えた瞬間、話がしたいと夜中にメールを打ってきた。それは読みながら、たくさんの思索をしてきた(させられてきた)からだろう。

もうオースターの新しい作品には出合えない。それはたいへん残念なことだ。まだ書いてほしかったとも思う。けれども、読み返すことはできる。そして、読み返せばオースターと会話できるし、読み終えれば誰かと会話したくなるだろう。それこそがものを書いてきた作家の望みであるように思う。

 
 

森健(もり・けん)◎1968年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。科学雑誌、総合誌など雑誌専属記者を経て、独立。2012年『「つなみ」の子どもたち』で第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞、2015年『小倉昌男 祈りと経営』で第22回小学館ノンフィクション大賞受賞、2017年第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。2023年、「安倍元首相暗殺と統一教会」で第84回文藝春秋読者賞受賞。専修大学文学部ジャーナリズム学科・非常勤講師。著書に『ビッグデータ社会の希望と憂鬱』、『勤めないという生き方』、『グーグル・アマゾン化する社会』、『就活って何だ』、『人体改造の世紀』、『天才とは何か』ほか。


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文=森 健 (編集=石井節子)

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