名古屋ウィーン・クラブが市に寄贈した1968年製グランド・ピアノに装飾が施されている。「生命礼賛」をテーマに、名古屋芸術大学の学生らが猫や鳥、花を描き、天板には龍があしらわれている。
そのピアノに対座した20歳の男子学生が、久保田早紀の「異邦人」を弾いている。1979年発表のその曲をリアルタイムで知る私は、♪あなたにとって私 ただの通りすがり ちょっとふり向いてみただけの異邦人 という歌詞が浮かび、「通りすがり」という表現から、元新聞記者の血が騒いだ。
「異邦人」を弾き終わった男子学生は私の質問に答えてくれた。
3歳からピアノを習いましたが、楽譜は読めないんです。生の音楽聞いて、いいなと思った曲を練習すれば弾けるんで。このピアノが15階にあった時は数えきれないくらい通ってました。「ピアノ騒音」ですか。ある程度仕方ないとは思います。でも、無くなるのは悲しかったから、復活してよかった。ただ、肯定的意見より否定的意見が目立つのはしょうがないんでしょうかね。
男子学生はストリートピアノを略して、「ストピ」と呼ぶ。ストピ仲間にはピアノを弾けないメンバーも多いと聞いて、私も参加したくなった。そうした地縁、血縁を超えた繋がりは、SNS時代の今、より求められているのかもしれないと感じた。
最後に訊きますが、ピアノ殺人事件って知ってますか、と尋ねた。自分の生まれるはるか前のできごとなのに、彼は即座に、はいと答えた。「集合住宅で起きた事件ですよね」。彼が知っていたのはピアノをやっているからだけではないと思う。当時は日本中を震撼させた大事件だった。
じつは、私はこの社会的影響の大きかった事件に関わっている。それを伝えよう。
1974年、ピアノ殺人事件。死刑執行されない背景
1974(昭和49)年8月下旬の午前8時過ぎ、神奈川県平塚市の団地4階に住む男性A(当時46歳)が、階下に住む主婦と長女(8歳)二女(4歳)の3人を包丁で刺し殺した。理由は「家族の騒音がうるさい。とくに子どもの弾くピアノがうるさい」ことだった。犯行後いったん逃走した後に自首したAは精神鑑定を受けた。一審では「精神病ではない」として、死刑判決が言い渡された。A自身は当初「死刑になるために犯行をした」などと供述したが、弁護人の説得で控訴して、二審で東京医科歯科大精神科の中田修教授、山上晧助手(肩書は当時)の精神鑑定を受けた。診断が「統合失調症圏のパラノイア」と一審から変更され、妄想に基づいて実行された殺人は心神喪失と判断された。
刑法第39条で心神喪失者の行為は罰しないと定めており、二審鑑定が採用されればAは無罪となるはずだった。
ところが、鑑定途中でAが控訴を取り下げたため、Aの訴訟能力が別途鑑定された。中田教授は最終的には「訴訟能力無し」と診断したが、当初は訴訟能力があると証言していた。裁判所は最初の証言を取り入れて訴訟終了を宣言した。裁判は1977(昭和52)年4月、一審の死刑判決が確定した。
Aにとっての問題は、裁判で死刑と確定した以上刑を執行されるはずだが、95歳の今となっても執行されていない点だ。これは、上に述べた複雑な事情が絡み、歴代法相が死刑執行の判を押さずに来たことの結果だ。中田鑑定は著名な精神鑑定を集めた書籍『日本の精神鑑定』(みすず書房)にも重要事件25のうちの一つとして掲載されている。由々しき人権問題といえよう。
ここで精神科医である私の出番がきた。(次回は12月10日公開予定)