館が掲げるミッションはメディアテクノロジーを用いた新たな芸術表現の探求だ。その性質上、スタッフには必然的にメディア(媒体)自体のあり方を問い、拡張していく姿勢が求められる。AIやメタバース、ロボティクスなどの急速に発達する先進的な技術領域のリサーチはもとより、文字、音、言語、そして我々人間の知覚といったコミュニケーションを媒介するもの全てが対象になり得る広大な領域を相手にしている。
「便利で役に立つもの」ではない出発点
今日も、YCAMのスタッフはアーティストやクリエーターの多種多様なアイデアに対して、試行錯誤しながら実験を繰り広げている。フラメンコダンサーのステップをAIに学習させるために靴にセンサーを仕込むもの(1)、新たなスポーツを生み出すためのガジェットを試しているもの(2)、監視社会を擬似体験できるようなオリジナルブラウザを開発するもの(3)、インスタントカメラにセンサーを取り付け自動シャッター/自動巻き上げできるよう魔改造するもの(4)、館内にあるバイオラボで近くの公園から採取した植物のDNA解析を行うもの(5)。
これらは決して「便利で役に立つものをつくろう」や「社会のニーズに応えよう」といった出発点から始まったものではない。アーティスト、クリエーターと共につくる芸術表現のための実験であり、アートのための研究開発活動である。この点において大学や企業が持つ研究機関とはやや毛色が異なるのかもしれない。
もちろん、近年ではアート思考を筆頭に、大学や企業がイノベーションの源泉として、また混沌や逸脱といった計算不可能性をもたらす存在としてアートに期待する機運も高まり、その重要性は知られているところだ。アートと創造性の関係について参考にしたいと、YCAMへの視察も年々増えている。
一方、このような非合目的的で実験的な試みについて、社会全体が肯定できるような土壌を整備し、持続させていくのは難しい。評価や説明責任が先立って目的化してしまい、実験の内容にまで介入してしまう場合がほとんどであろう。あるいは目的がフレームワークを既定し、手段や内容に影響を与えてしまうという事態が起きがちだ。(例えば、観光振興を目的とした芸術フェスティバルにおいて似たような表現の作品が多くなってしまうなど)
硬直化した社会において「実験の場」や「自由で自律的な表現の場」はどのように肯定され、成立するのか。ビジネス、アカデミア、行政など各分野が同じ問題を抱え、克服するためのアイデアを試行している。
このような状況に対して「YCAMのやり方」を模索したいと思った。2020年よりメディアアートのクリエイションや研究開発で得た様々な知見を 誰かがどこかで 応用・転用・誤用する「社会共創」の枠組みをデザインし、実装を促すチームをYCAM内に編成した。
現在に至るまで、テクノロジーの応用可能性の高さを活かし、社会の中の様々なプレーヤーのモチベーションに基づいた技術、ノウハウの手渡しの実践を試みている。コラボレーターは教育、まちづくり、福祉、観光、産業など文化芸術の枠を越え、広がりを見せている。本コラムでは次回以降で具体的な実践例を紹介していきたい。