さっきの携帯電話の例で出てきた、教室の端っこに座っている10人、「花柄がちらっと見える長方形」といったマイノリティの学生たち。彼らもそのうちにだんだん声が小さくなって、「やっぱり黒い長方形でした、ごめんなさい」と言い直すかもしれません。そうして、私が見えているヒョウ柄のケースは、100人は見えていなくて私一人しかみえていないことになる。
そうなると、「ヒョウ柄がみえるなんて、おまえの目がおかしいんじゃないか?」と言われ、いたたまれなくなり、そのうち黙ってしまうか、黒い長方形ということにして、衝突を避けようとするかもしれません。
同じモノをみていても、みている景色が違うと、違うものに見えることを理解し合うこと、そのうえでそのモノの全容解明をするためには、いろんな角度からいろんな形状を出し合って、立体的に全容を理解する作業が必要です。だからこそ携帯電話の形は、「教室の端っこの観点」も足した上で、総合的に推測していく必要があるのではないでしょうか。
たとえば「正義」について話す場合も、「どの観点(教室の真正面か、端っこか)から見て正義か」を必ず一緒に論じることが必要です。すべての観点から見て「正義」な概念は存在しないからです。例えば、あなたが「テロリスト」という言葉をきいたときに想像する人や集団をAとします。そのAに「テロリスト」とは誰か?とたずねると、別の人や集団Bがあげられるとすれば、同じ言葉を使っていても別のものを想像していることになります。
複数の角度から見た時の、複数の「正義」について、相互に情報交換することこそが「対話」であり、「議論」でもあります。自分一人で、スマホをぐるぐる回して全容を理解できた気になったとしても、見落としがあるかもしれません。本当の意味での教養は、たったひとりでは会得できず、対話や議論などを通してでしか会得できません。学校に行ったり、仲間と議論したり、誰かとコミュニケーションを取ったりすることが大切なのは、そのためでもあります。
そして、教養というツールがあればこそ、答えのない、困難な状況への対応も可能になるのです。
『おっさんの掟: 「大阪のおばちゃん」が見た日本ラグビー協会「失敗の本質」』(小学館新書)
(ラグビー新リーグ、2022年1月開幕の中心的役割を果たし、前年まで法人準備室長・審査委員長を務めた著者はなぜ突如としてラグビー界を追われたのか。彼女が目にしたラグビー界は、驚くべき「おっさん」的価値観が支配する日本社会の縮図だった──。)