ウィルと「お話」の人物との邂逅というこの一連のシーンの直前にも、少し不思議な場面がある。
バスタブにパジャマのまま浸かって「心が乾いてしまった」と呟くエドワード。そこに「私は涙が乾かないわ」と言いながらやはり服を着たまま入るサンドラ。目を閉じて抱き合う2人。
死の近づいた夫と長年連れ添った妻の愛情溢れるシーンなのだが、なぜ服のままで湯船に浸かっているのだろうか。まるで夢で見るようなシュールな印象を与える。既にこのドラマの中では、事実とフィクションが溶け合い始めているのではないか? それもティム・バートンのマジックめかした仕掛けでは?とすら思えてくる。
ティム・バートン(左)、ヘレナ・ボナム=カーター、2004年(Steve Finn/Getty Images)
父と息子の微妙な対立は、危篤となって入院したエドワードに付き添ったウィルが話すストーリーで溶解する。
あんなにホラ話を嫌っていたウィルが父に乞われてその場で創作するのは、エドワードの語ってきた彼自身のフィクションのパズルの中で、ただ一点だけ欠けている「死に方」についてのものだ。
病院を抜け出し、生涯に出会った人々に別れを告げ、彼らが見守る中で永眠した父が、息子の手によって湖に放され伝説の大きな魚となって泳いでいく……という見事なエピソードで、ウィルは父の人生のパズルを完成させる。
そして、彼の本当の姿はやはり彼自身の語りの中にあったということをウィルが再確認するのが、「お話」に登場した人々が実際に集まってくる葬儀の場だ。ここで、相互に分裂していた事実とフィクションは完全に融合する。
青春の試行錯誤、恋愛、結婚、労働という多くの人が体験する出来事は、エドワードの語りを通してカラフルで胸の躍る「お話」になった。それはエドワード自身がドラマチックに生を感受してきたということを示している。
人はただ出来事の積み重ねを生きるのではない。自分だけのドラマを生きるのだ。もっと言えば、自分だけのドラマを自ら“つくる”ことが、生きるということなのだ。それが、父エドワードが「お話」を通じて息子に伝えたかったことなのだろう。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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