93年にシリコンバレーでアル・ゴア米副大統領の提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を会場で聞き、出井は猛烈な危機感に襲われる。
インターネットの時代、デジタルの時代を予感して、「このままだとソニーは恐竜と同じ運命をたどる」と社内で改革を説いて回り、当時の社長、大賀典雄に「隕石で滅びた恐竜にならないために」という建白書まで提出する。
出井伸之はソニーの経営トップを1995年から10年務め、米FORTUNE誌の表紙を飾ったことも。
95年に社長に就任した出井は、「我々はデジタル・ドリーム・キッズにならなければならない」と、「Digital Dream Kids」を提唱。早すぎた構想は、現在のソニーが実現させた。
“ロックスターのような経営者”の登場
2000年代、インターネットの時代になると、異質な経営者が続々と登場した。
「メザシを食べて会社を経営することが立派といわれるような1億総サラリーマン化の時代は終わった」
こう挑発したのはホリエモンではなく、ソフトバンクの孫正義だ。
「メザシ」とは中曽根康弘政権時代に「土光臨調」で行政改革を行った土光敏夫・元経団連会長のこと。石川島播磨、東芝などで社長職を歴任した土光は、夕食に菜っ葉のみそ汁とメザシを夫婦で食べている場面がNHKで放送されて以来、その質素で庶民的な生活から「メザシの土光」と言う呼び名で国民に親しまれていた。
仕事に厳しく、猛烈に働き、生活は質素という土光の生き方は日本人に好まれるリーダー像だったが、孫は公の場でそれを否定したのだ。
孫のメッセージはまさしくアジテーションで、経営者のメッセージが変化したのは孫正義からといっても過言ではない。
「4回失敗し、5回目でナスダックに上場し、1000億円もの大金持ちになった経営者が何人もいる。みなさんも果敢に挑戦してほしい」
孫が設立した新たな株式市場「ナスダック・ジャパン」の設立初会合での発言だ。
ネットバブルの2000年2月、ソフトバンクは1株20万円の高値をつけた。
孫はさらに「明日の孫正義」を夢見るベンチャー起業家たちの魂の導火線に火をつけていく。
2000年2月2日。東京・六本木のディスコ「ヴェルファーレ」は人でむせ返っていた。孫はスイスのダボス会議から飛んで帰ってきてこう声をあげた。
「僕はどうしてもこの会に参加したかったから3000万円でチャーター機を借りて帰ってきて、こうして壇上に立っている」
ロックスターのような振る舞いをする経営者が登場したのだ。さらに彼は会場の者たちを鼓舞するように、「今のネット社会の革命は明治維新に匹敵する」と煽った。
「次のミレニアムには、いまの会社を作ったのは、あの時の人たちだったと、思い起こさせる時代にしよう!」
「カネを稼ぐ」がメッセージに
孫が語る青春期の起業への道は、後に続く者たちをやる気にさせた。
「アメリカから帰国後、どんな事業を起こすか、1年半悩み抜いた。そのときに40ほど新しい事業を考えた。40の事業を徹底的に調べ、40の新しいビジネスモデルを発明し、10年分の予想売上、人員表、競合となる会社などを細かく想定した。それぞれのビジネスモデルの書類の束は、各1mの高さになった。徹底的に情報を調べたうえで、さらに情報を削ぎ落とし、ビジョン実現の戦略をたてた」
しかし、1983年、日本ソフトバンク設立の2年後に大病を患い、余命5年と宣告された。26歳のときのことだ。
「孫子の兵法を30冊は読んだ。その中から抜き出したものと、自分だったらこう思うというものを、入院中につくった。すべての文字、すべての意味を僕は腹の髄まで入れている」(ソフトバンクアカデミア開校式で)。
そうして、孫子と孫正義の「時空を超えた合作」である経営実践の手法「孫の二乗の兵法」をつくりあげたという。
病床でエゴを捨てたと悟った彼は、「孫の二乗の兵法」について、こう語っている。
「自分自身まだ極めきれていないし、永遠のテーマなのです」
新市場が整備され、世界的な金融緩和の流れ、そして規制緩和が進み、才覚さえあれば一夜にして億万長者が誕生できる時代に日本もなっていた。経営者がスターのようにスポットライトを浴び、「カネを稼ぐ」という言葉がストレートなメッセージとなった。
孫のヴェルファーレでの一声から変わったといってもいいくらいに、舞台は劇的に場面転換したのだ。