「うちは家具屋だったんですが、おじいちゃんが死んだ時、遺影を置く台を家族で探したんです。おばあちゃんがちょうどいい台があると言って、小さな机を持ってきた。それはおじいちゃんが初めてつくった勉強机でした。おじいちゃんが最初にアウトプットした作品のうえに、彼の最期を飾る写真が載っている。その人が死んでも、作品は残り続ける。ものづくりの素晴らしさを、そこで知ったのです」
大丸はその頃から、服をつくるようになる。学校に嫌気がさしてから、救いを求めるように服の世界にのめり込んだ。
写真=曽川拓哉
おばあちゃんとピンク髪青年
学校へ行くのをやめてしまった大丸を説得するため、20人ほどの親戚が集まった。しかし、彼はその場で学校ではなく家出という選択をする。友達の家を転々としながら、服づくりに勤しむ。書店で何冊も服づくりの本を購入して、見よう見まねでつくる。時には服にペイントを施し、アート作品のように仕立てたこともあったという。
そんなとき、ファッションの世界に没頭していた大丸は、ある女性を紹介される。大丸の人生に大きく影響を与えた人物だ。彼女は教室を主宰して、主婦たちに洋裁を教えるおばあちゃんだった。独学で服づくりをしていた大丸だったが、初めて「先生」につくことになった。
当時、大丸はピンク色の髪に迷彩の服を着ていた。「大人はみんな憎んでいました」というくらい、世の中に喧嘩を売るような格好をしていた。にもかかわらず、おばあちゃんは「面白いわね」とあたたかく大丸を迎え入れた。
学校へ行かない大丸を否定してきた大人たちのなかで、おばあちゃんだけが唯一心を許せる存在だった。彼女はそんな大丸に、2年間、洋裁の基礎を丁寧に教え、彼を山本耀司、高田賢三、コシノジュンコなど、名だたるデザイナーを輩出していた文化服装学院へと導く。
「彼女のご主人は、古い人だから、相当厳しかったようです。女性は家で家事をしなくてはいけないと言っていたらしく、洋裁は夫が寝てからやらなくてはいけませんでした。でも、普段はそんなことは表面には一切出さない人でした」
パンク・ロックのセックス・ピストルズを聴きながら、主婦に囲まれて洋裁を懸命に学ぼうとする大丸に、彼女は好きなことに一心に突き進む自分を重ねていたのかもしれない。
ニューヨークへの旅立ち
ファッションの道で生きていくことを決め、無事に文化服装学院を卒業すると、彼は日本の有名ブランドで働くことになる。才能が花開き、その後アメリカのIT企業からデザイナーとしてヘッドハンティングされることになる。
ニューヨークに行くことになったのは、その誘いがきっかけだった。しかし、IT企業の業績が悪化し、現地に着いてから契約は白紙となってしまう。すでに日本の自宅も引き払ってしまったため、帰るところもなく、そのままニューヨークにとどまることを決意する。