ディスコ・カルチャー興亡記。いまこそ「栄光なき天才DJ」の記憶を


今日「ロフト・クラシックス」と呼ばれるこうした楽曲群の中でも特に有名なのが、カメルーン出身のサックス奏者マヌ・ディバンゴによる「ソウル・マコッサ」だ。

わずかな数が輸入盤として出回っていただけのこの曲を求めて、ニューヨーク中のレコード屋にリクエストが殺到。噂を聞きつけたアトランティック・レコードは米国販売権を獲得して同曲を緊急リリース、1972年にはトップ40ヒットを記録した。おそらくこれがディスコの現場がヒットチャートに影響を与えた最初の例だろう。 

マンキューソのプレイに魅せられて、DJを志すようになった常連客もいた。わずか15歳のときに行った「The Loft」のパーティで人生が変わったと語るニッキー・シアーノもそのひとりである。

1973年に兄からの資金援助により弱冠17歳で自身のクラブ「The Gallery」をオープンしたシアーノは、3台のターンテーブルを駆使するプレイでその後のDJスタイルを一変。ビートやフレーズをループさせる手法は、トム・モールトンやウォルター・ギボンズといったレコード製作も行うDJを介して、楽曲そのもののアレンジにまで影響を及ぼすようになっていく。いわゆるディスコ・レコードの誕生である。

ディスコ文化の変化


ディスコ・レコードが売られ始め、平凡なDJでも場をもたせられるようになったことで、ディスコはニューヨーク郊外にまで作られるようになっていった。1976年にニューヨーク・マガジンに掲載された「土曜の部族の儀式(Tribal Rites of the New Saturday Night)」は、そんな郊外ディスコのひとつである「2001 Odyssey」に出入りする青年トニーを追ったルポルタージュである。

実はトニーは記事の著者ニック・コーンが創造した架空の人物だったのだが、パラマウント・ピクチャーズは、売り出し中のジョン・トラヴォルタにトニーを演じさせた青春映画の製作に着手する。こうして翌年に公開されたのが『サタデー・ナイト・フィーバー』だった。

サタデー・ナイト・フィーバー
映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のワンシーン。この決めポーズはあまりに有名。(Photo by Getty Images)

同作で描かれたディスコは、それまでディスコ・カルチャーを支えてきた黒人やヒスパニックのゲイ的な要素を排除して、男女の出会いの場として描かれた。また決してディスコで人気だったわけではないオーストラリア出身の白人グループ、ビージーズの楽曲が流れるなど、現実とは乖離したものだった。しかし映画は世界的に大ヒットを記録して、全米どころか世界中に『サタデー・ナイト・フィーバー』的なディスコがオープンしたのだった。

同じ1977年には歴史上最も有名なディスコがミッドタウンの中心にオープンする。「Studio 54」である。オープニング・パーティにトルーマン・カポーティやアンディ・ウォーホル、フランク・シナトラらセレブを招待する作戦によって、「Studio 54」はナイトライフ・シーンの最先端へと躍り出た。

すぐにセレブや店内を一目みたいと一般客が押し寄せるようになったが、彼らはオーナー、スティーブ・ルベルの厳しいファッション・チェックをくぐり抜けないと入場を許されなかった。だがこの敷居の高さが「Studio 54」の名声をさらに押し上げていった。


70年代のディスコシーンを象徴するStudio54には、マイケル・ジャクソンやダイアナ・ロス、イブ・サンローラン、ドナルド・トランプなど、セレブリティが連日訪れた。
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文=長谷川町蔵

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