かつて渋谷は「音楽が循環する街」だった 変わりゆく街と音色に思いを馳せて

かつて渋谷は音楽が循環する街だった(Photo by Unsplash)


老舗のディスクユニオンに加えて、マンハッタンレコード、西武百貨店内から移転したCISCO、そしてタワーレコード渋谷店が次々オープンしたことで宇田川町は1980年代初頭には世界有数のレコードショップ街となった。その後、CSVやZEST、西武セゾン系のWAVE、外資系のHMVも出店してこのエリアは1990年代に絶頂期を迎える。

やがてここで買ったレコードやCDにインスパイアされて作った音楽をライブハウスやDJバーでプレイするという、かつて道玄坂でシティ・ポップのオリジネイターたちが行っていた音楽の生産と消費の循環が街全体で行われるようになった。

1993年に「渋谷系」と命名されたこのムーヴメントの代表的なアーティストは、青山学院生が中心となった「ピチカート・ファイヴ」や小田急線沿線の和光学園生が中心となった「フリッパーズ・ギター」ら。おびただしい音楽の情報を都会的なセンスで処理していた彼らは影響源をメディアで惜しげもなく公開し、ベレー帽にボーダーシャツといったファッションのファンがそれらを渋谷まで買いに行く現象を生み出した。堤清二は公園通りを開発する際にカルチエ・ラタンを意識したという。渋谷系のファンは彼の目論見通りの消費行動を取ったというわけだ。

とはいえ多くのティーンにとって、渋谷はアメリカ直輸入のストリート・カルチャーにいちはやく触れ合える街だったはずだ。そのオリジンであるチーマーのルーツは、青山学院を中心とする都内の付属高校生たちがチームを名乗ったことに遡る。やがて彼らのファッションは、アメリカ本国の流行に影響されて白人的なアメカジから黒人的なストリート・ファッションへと変化した。これがレコードショップ街にも影響を及ぼして、商品の中心はロックからヒップホップからR&Bにシフトしていく。

そしてハーレムやWOMBといった大バコ(大型クラブ)のオープンによって、1990年代末からゼロ年代初頭にかけての渋谷では、最新のヒップホップ情報をクラブで仕入れ、宇田川町でレコードを買い、それにインスパイアされたヒップホップをパフォームするという、シティ・ポップや渋谷系と同じ生産と消費の循環が行われるようになった。

スクランブル交差点
2002年の渋谷スクランブル交差点(Photo by Getty Images)

音楽の循環の舞台は、街中からネット上へ


そんな渋谷だったが、2000年代には多くのレコードショップが閉店に追い込まれている。理由はネットショッピングおよびネット配信の普及だ。今やミュージシャンは街に出かける必要などない。部屋から一歩も出ずに最新情報を仕入れて音楽をクリエイトし、て評価を得られる時代がやってきたのだ。生産と消費の循環はネット上で行われるようになったのである。

もし渋谷が単なるショッピングの街ではなく音楽をクリエイトする街として再生しようとするのであれば、リアルシティならではの生産と消費の循環の仕組みを新たに作り直す必要がある。新生PARCOにユニオン・レコード(ディスク・ユニオン)やWAVE、テクニークが入っていることは、こうした試みのひとつに思える。

果たしてそれが成功するかは、循環の一端を担うライブハウスやクラブが十分機能していない現在、判断することは難しい。でも街中での偶然の出会い無しで生まれるポップミュージックがどこか味気なく響くことも確かなことなのだ。

文=長谷川町蔵

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