彼らが画期的だったのは、CSNYやザ・バンドといった同時代のアメリカン・ロックをいち早く吸収して独自に解釈したロックを奏でていたことだが、それを可能にしていたのが道玄坂のカルチャーだった。BYGでアメリカン・ロックの最新情報を得た彼らは、ヤマハ渋谷店で最新のアルバムと楽器を買い求め、それにインスパイアされた音楽をBYGやヤマハでプレイしていたのだ。
しぶや百軒店の入り口。レコード店やクラブなど、渋谷には音楽に関連した施設が数多くある。(Photo by Unsplash)
盛り上がるティーンを追って活気づく街
こうした動きを、道玄坂で遊ぶティーンが発展させていく。彼らの多くは都内の大学やその付属高生。慶應や立教(前者には松任谷正隆、後者には高橋幸宏がいた)に通うティーンもいたが、中心になっていたのは渋谷駅前からのびる宮益坂の上にあった青山学院生だった。
グループ・サウンズ(GS)時代にも、かまやつひろしや筒美京平といったアメリカン・ポップスを巧みに取り入れたソングライターを輩出していた同校だが、前述の鈴木茂をはじめ林立夫、小原礼、矢野顕子、後藤次利といったミュージシャンは高校時代からプロ活動をはじめ、新世代のポップミュージックの担い手になった。
彼らが模範とするアメリカン・ロックのトレンドはやがて、フォーク・カントリーからR&B、そしてAOR (アダルト・オリエンテッド・ロック)へと変化。それに伴って70年代後半に彼らはファンキーなリズムと凝ったコード進行に流麗なメロディを乗せた日本語ポップスを完成させる。それが現在「シティ・ポップ」と呼ばれる音楽である。
ちなみにシティ・ポップの代表的なアーティストである山下達郎、大貫妙子、竹内まりやが在籍していたレコード会社RVCのオフィスは宮益坂にあり、局地的だったシティ・ポップの音楽性を全国レベルに拡大することになるサザン・オールスターズは青山学院出身である。
一方、渋谷駅と代々木公園を繋ぐ区役所通りでは1969年に「渋谷ジァン・ジァン」がオープンする。この小劇場の盛り上がりに目を付けたのが、区役所通りの入り口に西武百貨店をオープンしていた西武流通(のちのセゾン)グループ総帥、堤清二(百軒店を開発した西武グループ創業者の堤康次郎の次男)だった。同グループは1973年、区役所通りに劇場を併設したPARCOをオープン。時を同じくして区役所通りは公園通りへと改称された。公園通りの裏手の坂道をスペイン坂と名付けるなど、巧みなイメージ戦略によって公園通りは都内有数の人気スポットとなった。
こうした公園通りの人気を支えたのが、東横線や井の頭線、小田急線に住むティーンたちだった。特に1977年に開通した東急新玉川線(現・田園都市線)は半蔵門線との乗り入れによって沿線人口が急増。それまで都内に留まっていた渋谷を愛する子どもたちは川崎や横浜まで拡大していく。こうしたニーズを東急グループも見逃すわけがなく、1979年には道玄坂入り口に商業施設「109」をオープン。渋谷に遊びに来たティーンは道玄坂と公園通りを行き来しながら街を歩き回るようになった。
その結果、開発されることになったのが道玄坂と公園通りに挟まれた宇田川町エリアである。ドブ川だった宇田川を暗渠化して作られたこのエリアには、ゲームセンターやファストフード店が続々誕生した。ランドマークは東急系列の東急ハンズ渋谷だったが、注目すべきはレコードショップの方。坂道が多く狭小ビルしか立たない立地にレコードショップという業態は最適だったのである。