すると、尾林が目撃したような面談もやむを得ないのかもしれない。しかし彼は、「お金を払って形骸的に配置するだけ。産業医って意味があるのか」と、もやもやした思いを抱えながら過ごし、2006年に「産業医になる」と決めてリクルートを退社した。
「反対しかされないと思って、周囲には言えなかったですね。もしかしたら、社内で人事や労務などの当該部署に異動して、制度を変えるという方法もあったかもしれません。でも、数千人に向けた型だけを整えるより、ひとりひとりと向き合う方が自分の性質に合っているなと。一人でも多くの人と向き合い、回復の手伝いをしたいと思いました」
教科書通りの産業医の仕事と、立ち会って見た断片的なリアル。それしか知らなかったが、直感で、「この小さなリアルが世の中の大半だ」と感じていたという。
「産業医になる」シンプルだけど、珍しい道
産業医になるには、まず医者にならなければならない。働き方も多様化するいま、キャリア転向は珍しくないが、30歳から医者を目指す人は多くないだろう。なんといっても、医学部に通い、国家試験を受け、医師免許を取得し、少なくとも2年の初期研修を受けて……と簡単な道のりではない。
多少の助けになるのは、センター試験が不要で、1〜2学年スキップできる社会人編入という制度だった。尾林は迷わずそれを利用できる弘前大学を受験し、医学部3年生から新たな道をスタートした。
当時、産業医を目指していると言うと、教授たちに冷めた目で見られたという。「おそらく、君は美味しいビジネスに目をつけたね。企業をいくつか掛け持ちすればそれなりのお金になるからね。という見え方だったのかなと。それぐらい、産業医になりたいという人が珍しかったのだとも思います」と言う。
専門を決めるときは、「心の病気に向き合いたい」と精神科を選んだ。そして日本で現存する最古の精神科病院で初期研修を行う道を選んだ。
初期研修の2年間は、法律上、アルバイトなどせずそれに専念しなければならない。全ての科を回るハードな期間だが、尾林は「この間に産業医の資格を取ってしまおう」と、夏休みを返上して講習会に参加した。産業医を目指して一直線。しかし、このシンプルな道を歩んでいる人は他にいなかった。
医者に興味のなかったところから内科や脳外科まで経験するとは想像を絶するが、「この経験があったからこそ、いま患者さんと向き合うときに、体の問題か心の問題か見極めることができる。度胸もつきましたね」と尾林は言う。