情報の標準化から考える、ポストコロナ時代の移動と自由

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3方式に分裂したテレビ


鉄道の普及によって国際間での移動が増えると、それに伴って通信手段も影響を受けることになった。19世紀には郵便制度や電信、電話などの出現で、各国間の調整や標準化を行う最古の国際機関とされる万国郵便連合(UPU)や国際電気通信連合(ITU)などが設立され、20世紀になって各国の標準化団体を統合する国際標準化機構(ISO)もでき、モノばかりか情報に関するグローバル化が進んだ。

情報に関してもまた鉄道のように覇権争いから不協和音が生じた。戦後にこうした分断が顕著だったのはテレビの方式だった。

テレビ
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世界を牽引したアメリカでは、1940年代から始まっていたモノクロの放送に加え、1953年に業界団体の全米テレビジョンシステム委員会(NTSC)が、カラーテレビの方式を定めて、それがNTSC方式と呼ばれるようになる。

アメリカ占領軍の支配を受けていた日本では、1953年にテレビ放送が始まったが、それは当然のようにNTSC方式になった。同じ方式ならアメリカ製のテレビ受像機や番組もそのまま売れるわけで、テレビで大人気のスポーツ中継に合わせてアメリカ方式のプロ野球までもがセットで導入されることになる。

しかしこうしたアメリカによるテレビ支配が及んだのは、同盟国のカナダや中米、南米の半分と、アジアでは日本以外には韓国や台湾、フィリピン、ミャンマーぐらいだった。

ヨーロッパではアメリカに対抗してフランスのドゴール大統領がSECAMという独自方式を開発させたが、フランスにライセンス料を払うことを嫌がったドイツは、PALという別の方式を開発した。あせったフランスは空白地帯だったロシアを攻め、東欧などに活路を見出そうとし、混乱の末に2方式に分裂したままになった。

フランスでは文化政策がテレビや映画にも及び、ハリウッドの映画やコンテンツに対抗して自国作品の上映比率を決めたり、売上金を映画製作などの助成金に回したりという政策を行ってきた。ともかくアメリカ文化へのアレルギーは強かったのだ。

こうして国家のエゴで3分割されたテレビの方式のせいで、各国のテレビ番組は方式が違えばフォーマット変換をしなくてはならず、自国の文化保護を理由に自由な流通はできない状態となってしまった。
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文=服部 桂

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