「羽ばたきなさい」と「羽ばたいていかないで」という二律背反のメッセージを母から受け取る娘は、時に母を疎ましく思いつつもなかなか離れることができず、庇護に甘えてしまう。ニナが白鳥にとどまっていて黒鳥を我が物にできないのは、「母の呪縛」のせいなのだ。
このことはニナの身体に現れており、背中には自分で掻きむしった傷跡がある。この無意識の自傷行為は、「母から自立したい」という願い、そして「女として自分を解放したい」という欲望の現れだ。
つまり、白鳥であるニナの中に、黒鳥はちゃんといる。それはまだ、翼を縛られていて羽ばたけないだけなのだ。
ニナの二律背反はたとえば、かつてのプリマ、ベス(ウィノナ・ライダー)のルージュを盗んで唇に塗り、演出家トマに自己アピールするという振る舞いに現れている。
ベスはニナにとって大先輩であり、目標とすべき憧れの人である。そのルージュを盗むという行為は、ニナの中に、ベスになりたいと言う願望と同時にベスを葬り去りたいという思いがあったためだ。はっきり自覚していなかったのは、優等生のニナの中の抑圧が強いからに過ぎない。
のちに、役を取られてニナを恨むベスは事故で再起不能になり、ニナは「目標」を失うが、それは実はニナ自身が望んだことだったとしても不思議ではない。
トマ役ヴァンサン・カッセルとニナ役ナタリー・ポートマン(James Devaney/WireImage)
「自分の欲望を確かめろ」
「まだ羽ばたけない黒鳥」を、キスに反撃してきたニナの中に発見した演出家トマは、彼女を主役に指名する。黒鳥を踊りきるという大きな課題に取り組むニナの前に現れるのは、妖艶で自由奔放な新団員リリー(ミラ・クニス)。自分にないものを持つ彼女に惹きつけられつつ、黒鳥の役を取られるのではないかという焦燥がニナに強い緊張を課し、彼女の幻覚は増えていく。
既にリリーに出会う前に、リリーと似た、しかし自分にも似ている黒いコートの女をニナは地下鉄で目撃している。物語としてはリリーになるだろうが、それがニナの幻覚かもしれないことを考えると、黒鳥になる自身の姿を彼女は既に幻視していたとも取れる。
「自分の欲望を確かめろ」とのトマのアドバイスで、マスターベーションをしているベッド脇にふと母の幻影を見るのは、もちろん罪悪感の現れだ。性的な自己解放と呪縛の桎梏は、母の描いた壁一面の絵画に、母の自画像とニナの肖像画が混ざり合っているシーンでも示される。
幻覚の進行とともに、背中の傷も拡大していく様子から、ニナの中の黒鳥のあがきが伝わってくる。