「悩み」を軸に次の仕事を考える
私自身の専門は、情報システムの構成法とその応用です。と聞くと、皆さんは私のことを、時代の最先端のコンピュータやインターネットをやっているばりばりの理系人と思われるでしょう。職業人としての私は、まさにそういう立場で生きてきました。
一方で、私は、「人間社会は時代とともに進歩するものだ」という考えかたを言葉そのままには受け入れられない、理系では珍しいタイプの人間でもありました。
15000年前のラスコーの洞窟壁画を超えるものを、現代アートの画家達は描いているのか。我々が使う最新のITデバイスは、はたして縄文時代の火焔土器を凌駕するものなのか。精密さや利便性ではイエスであり、そのことの価値は否定しませんが、精神性や芸術性においてはどうなのか。私の場合、そういう疑問が、何をするときでもやみがたく湧き上がってきたのです。
同じことは、1300年前の『万葉集』の詩歌と今の小説、ベートーヴェンと昨今の作曲家など、さまざまな場面で問われうることでしょう。私は、いつもそういう問いを抱きながら、情報理工学の研究を、そして教育をしてきました。
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ここで私は、私見にもとづいて、文明批評や文明批判を申し上げたいというわけではありません。そうではなく、もし皆さんが、同様のことや、もっと別のことで悩み、自分のやっていることに疑問を感じておられるとしたら、その悩みや疑問のうちでもっとも重いものは、たぶん一生皆さんをとらえて離さないだろう、ということを、自分の来し方を振り返って申し上げたいのです。
私の場合、コンピュータの研究が一段落するごとに、こうした「悩み」を軸として物事を組み立て直し、次の仕事を考えていくのが、習い性になっております。皆さんぐらいの年齢から10年間ぐらいは、私の研究テーマは、速くて便利なコンピュータを作ることでした。その後、信頼性や安全性が高いコンピュータ、ヒトに優しいコンピュータ、というふうに、テーマをシフトさせてきました。そして今は、ヒトを真に幸せにするコンピュータの研究に取り組もうとしています。そこには、これからの情報理工学が、経済的豊かさだけでなく、精神的・芸術的豊かさにいかに貢献するべきか、という大きな問題が含まれているはずです。
文科系・理科系を問わず、学問というものは、一般に、これに注力し推し進めることで、すぐにゴールにたどりつくというものではありません。むしろ、その過程で課題はだんだん大きなものにふくらみ、われわれの抱える葛藤はより深くなり、時としてわれわれは、より孤独でより苦しい立場に立たされるのではないでしょうか。そしてその孤独や苦しみこそが、学問の醍醐味ではないかと、私は思っています。
さて、皆さんの中には、純粋に学問のことだけを考えて毎日を過ごすことのできる恵まれた方もいらっしゃるかもしれませんが、大部分の方は、日々に生活していくための配慮を、学習や研究の場においてもせざるをえないのではないかと思います。これは、現代の社会システムの中の大学とその構成員の立ち位置を考えれば当然のことです。自分と家族の生活を安定させたい、地位や名誉がほしい、など、大声で言うことではないかもしれませんが、人間として自然な欲求です。
皆さんが実社会においてどのような立場に立っているのか、あるいはこれから立つことになるのかは、たとえばマックス・ウェーバーの『職業としての学問』などを読めば、理解の端緒は得られると思います。
また、ひたすらに勉強し、研究するといっても、世俗的な運不運はつきものです。「人生は芝居のごとし、上手な俳優が貧乏になることもあれば、大根役者が殿様になることもある」という福沢諭吉の言葉もあります。名誉や金銭も大切なものではありますが、これらにこだわりすぎず、俗世間とは不即不離の関係を上手に築き、バランス良くつきあうことが大切かと思います。