経済・社会

2019.12.05 05:00

アフガンの地で絶命した医師、中村哲の遺志。武器を捨てた農民とともに復興を推進

2003年フィリピンにてスピーチする中村哲 ( Photo by David Greedy/Getty Images )


ペシャワール会事務局、会見
ペシャワール会 広報担当理事の福元満治 (NHKニュースより)
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ペシャワール会の事務局がある福岡市内で、4日、広報担当理事の福元満治らによる会見が2度開かれた。昼過ぎにあった最初の会見では、「(中村の)命に別状はなく、アフガニスタン大統領府は全面的に協力してくれている」と、現地スタッフから聞いた状況を報告。また「現地の治安の安定のためにも、農業復興は急務であり、中村が事業を止めるのはあり得ないだろう」と見通しを語っていた。

ところが、その数時間後、首都カブール近郊に搬送される途中で、中村の死亡が確認されたとの速報が入った。再び行われた会見で福元は、沈痛な面持ちで「とにかく信じられません。無念でしょうがない。中村医師がいて成り立っているプロジェクトでしたので、現地スタッフは、私たちが想像できないほどのショックと悲しみを受けているでしょう」と語った。

現場主義を貫く。移動中に事件は起きた
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現地では、ペシャワール会に関連し、PMS(Peace Medical Services、和訳:平和医療団・日本)という事業体が組織され、総院長である中村医師が率いていた。日本人は中村ひとりで、職員は約100人。このほか、200人ほどのアフガニスタン人が作業員として働き、中村も、現場でともに朝から昼ごろまで作業するのが日課だった。

中村本人が重機を操縦することもあり、リーダーシップを発揮していたという。福元は「中村さんは日本では穏やかな目をしていましたが、現地では目力が鋭い。傭兵にならざるを得なかった人たちが農地回復により、農民として戻ってくる。そんな彼らから、畏敬の念を持たれながら指揮していた」と振り返った。

ペシャワール会の邦人が銃撃にあうのは、今回が初めてではない。2008年8月にはアフガニスタン現地で働いた伊藤和也がタリバンの武装グループに拉致、射殺された。31歳の若さだった。現地での農業計画に従事していた伊藤の死は、泥沼化するアフガン紛争の凄惨さを伝えるものとなった。

悲痛な若者の死を受け、アフガニスタン政府の要請もあり、PMSのスタッフらによって現地での活動のセキュリティを強化していた。最も危険なのは、今回のような「移動中」であるという認識があり、中村が乗車する車の前後に5人ほど武装したボディガードがつき、日によって経路を変え、ある地点を通過すると現地のオフィスに報告するなど、厳重に警戒していた。

銃撃された前日には、用水路の大規模改修の着工式が開かれ、これから工事を進めるところだった。今後の活動について、ペシャワール会と現地のスタッフと相談しながら決めたいとして、福元はこう断言した。

「今回の事件によって、この事業が中止になることはないと思います。あくまでも事業を継続していく。それが、中村医師の遺志でもあろうと思います」
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