その速報をみたのは昼の電車の中で、涙が溢れてきてスマホの画面から目が離せなかった。そのあと、駅の立ち食い蕎麦を一人で食べながら、やっぱり涙が止まらなくて、お蕎麦の中にポタポタたれた。悲しさと、それを上回る悔しさで涙が止まらなかった。
またやってしまった。会いたい人に、大事な人に、会いたいときにちゃんと会いに行こうと、祖父が亡くなったときあんなに誓ったのに。緒方さんの「私の仕事」を最初に読んだのは中学生のときだった。
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次から次に立ちはだかる困難に、人間味あふれる彼女が、葛藤の中で考え抜いて挑んでいた。中学生の私にとって、難民問題や国際関係は難しすぎて、正直あまり理解できなかった。しかし、日本人の女性でこんな人がいるんだと、そのかっこよさに憧れて、わたしも国連で働きたいと思った。
彼女が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で高等弁務官の職に就いたのがちょうど自分が生まれた1991年だったことも印象に残った。英語の授業で不規則に変化する動詞があることを知り、途方に暮れていた時期のわたしは「へ〜緒方さんは英語がしゃべれるのかな…」と、今考えると非常に失礼なことを思った。英語を使って仕事をしている人など、田舎の中学生には想像できなかったし会ったこともなかった。
もちろんその時は、将来自分が英語を使って仕事をする日がくるとは1ミリも思っていなかった。でも国連で働きたいなんてことは大きすぎて、恥ずかしくて言えなかった。
大学で国際文化学科に入り、開発と人権のゼミで勉強し、バングラデシュの先住民族の地域(チッタゴン丘陵地帯)でNGOの活動をした。そこは見えない紛争地だった。同地域にある国連開発計画(UNDP)でもインターンした。理不尽さに泣けてくる事ばかりだった。
軍がバックアップする入植者によって先住民族の村が襲撃されても、国連は直接的に非難することも、支援活動することも出来なかった。なぜかというと、国連の役割は政府の活動を支援する存在だから。”政治的配慮”の存在を初めて体で感じた。
緒方さんは大きな組織のトップとして、人命を扱う組織として、きっと政府に配慮しなきゃいけないことばかりで、いったい現場でなにを考えたんだろうと、Amazonで「緒方貞子ー難民支援の現場から」を注文した。結局、首都から12時間離れたバングラデシュの山奥には、注文した本は1カ月経っても届かなかった。あの本はおそらく、今もバングラデシュのどこかで止まっているはずだ。
そんな22才の私は、憧れていた国連という組織に少しお邪魔させてもらいつつ、目の前で起きる出来事に対してどうしたらよいか分からなくなった。キレイなことしか教えてくれない大人たちにも正直イライラした。あつくるしい学生だったと思う。美しい写真ばかり載っている国連の報告書にも悲しくなった。いや、同じ地域で少女へのレイプ事件が起きているのに、なぜそれは載せないの?と怒りがこみ上げた。
政府とのパートナーシップが大事なんて、頭ではわかるけど、その政府が市民を殺してるとき、ニコニコとパートナーシップが大事と言うのかと。勝手に襲撃事件のための支援金を集め始めたときは、チーフに呼び出された。「国連は中立だ。先住民族だけに肩入れしないように」という厳重注意だった。自分も先住民族であるにも関わらず、そう言わなくてはいけないチーフの心の内を当時は想像できず、悔しさに泣きながら家に帰った。