派遣社員から社長に。ポーラ傘下ブランドを育てる山下慶子の信念

DECENCIA代表取締役社長の山下慶子


共産主義国というこれまで生活したことのない環境下で、世界中から集まったバックグラウンドの異なる学生たちが慣れない中国語で会話をする。そのとき、日本特有の同調文化から解放され、個としての自分と向き合うことができたという山下。中国は「一度自分を壊して、再構築してくれた」場所だったという。

「他人に対して自分の意見を押し付けたくないし、真実は決してひとつじゃない。そんな気持ちを持つことができたのは2年間の留学があったからでした」


山下が趣味として集める土器

アーティストに囲まれた共同生活で感性を保ち続けた

留学から熊本へ帰国した山下社長は、偶然受けた東京の会社に採用される。就職氷河期だったこともあり、そのまま就職することになったのがエイチ・アイ・エスだった。中国語のスキルが買われ、中国人顧客対応を担当することに。

しかし、次第に「私はこのまま一生チケットの手配をするのだろうか」という思いが芽生え始めた。同時期、突如として描画への興味が表出。「今でも絵を描き始めた理由がわからないのですが、頭の中にあるイメージを探し求めるように絵を描き続けました」と山下。将来が見えない仕事に嫌気がさし始め、「絵を描くので辞めます」と職場に伝えた山下は、5年ほどで最初の就職先を退職した。

その後、留学時代の友人ら3人とシェアハウスに住み始め、絵を描きながら生活を続けた。当時はまだシェアハウスが珍しかった時代で、仕事を辞めたばかりの彼女と安定した収入がないアーティストたちでは、なかなか部屋も借りられなかった。ようやく借りたのが知り合いのミュージシャンが所有する物件だったこともあり、まわりにいる音楽家や建築家、コピーライターらがひっきりなしにシェアハウスを訪れてはパーティーをする毎日。

「自由でたまらなく楽しかった。カオスな生活のおかげで、30代になっても自分のアイデンティティを持ち続けることができた」という。

その後、派遣先として自宅からの距離で選んだ職場が「DECENCIA」だった。新規ブランドの立ち上げに携わるという案件で、このブランドをどう世の中に出していくか、社員も派遣社員も関係なく、少ないメンバーで事業を作ることになった。仕事を通じて「ブランドを生み出す仕事はクリエイティブだ」と気がついたタイミングで社員登用のオファーをもらい、正社員になる。これが、山下のDECENCIAでのキャリアのスタートだった。

山下はすぐサイト構築からリーフレットやプロモーションの制作、店舗出店交渉など、あらゆる業務に専念することになった。当時もアーティストとの共同生活は続いており、「会社員として働きながらも、家に帰ると知らないアーティストが部屋で寝ていたりする。不思議な二重生活でした」と振り返る。
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文・写真=角田貴広

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