東大を目指さなければならない状況と本当にやりたいことの狭間でもがいたが、高校3年生の冬、「美術をやりたい」という心の声が無視できないほどに大きくなった。
「人って、何かやりたいことを目標にしたり、それを叶えるために努力したりしながら生きていると思うんですけど、その時は自分のやりたいことにフタをしすぎちゃってたから、またあのころみたいなカビ人間に戻ってしまった。あまりにも心の声を抑え過ぎて、こんなの自分の人生じゃないと絶望していました」
死にたくなるような人生だけど、美術をやれる人生だったら生きていく覚悟が自分にはあるか。それを真摯に問うた結果、どうしても美術がやりたいと心に決め、反対する母を命を懸けて説得した。
その結果、高3の冬、すでにセンター試験の願書も出した後に、そのまま美術系の予備校にも行かず、ほとんど準備もせずに受けた多摩美術大学に一発合格。念願だった美術の道へと踏み出し、息を吹き返した。その1年後には、藝大も受験。見事審査員の満票を獲得して合格した。
「僕は魂から描きたくて描いているんだぞっていう気持ちでした。整えられた絵よりも自分の絵の方を教授たちもきっと面白がってくれると思っていました」
心置きなく美術の制作ができる環境を手に入れた磯村は、「新しい人生を手に入れたような気分。描いていいし、描けるし、つくっていいのが嬉しくて、体力が続く限り毎日描きまくりました」。美術家となったいまは「毎日が楽しくて仕方がない」という。
「HOME PARTY#1(Nepalese Tihar*Tokyo House Party)」
追いやられた側に立ったからわかること
磯村がテーマにするのは、民衆の芸術だ。「王様が描かせたような絵画よりも、自然発生的に民衆が発展させていった美術に興味がある。そういうものは、社会の思想や変動を如実に反映していたり、連動していたりするから」だ。
幼いころから家庭にも学校にも居場所がなかった。オーストラリアの留学では、東洋人ということで人種差別にもあった。そんな経験から、自分がつらいときに手を差し伸べてくれた人の優しさが心に染み、自分と同じようにつらいと感じている人の気持ちもわかるようになった。
「それまでは、社会問題をアートにするのは不純かもしれないと思っていたけれど、2016年にイギリスの欧州連合離脱問題(ブレグジット)が出てきたときにゾッとしたんです。これが決定したら、人々の中に潜んでいる差別的な感覚が助長されるのではないかと思って。日本も無関係ではないと。それ以来、自然にそういうテーマが増えていきました」