──劇映画ということを忘れるようなリアルなシーンが多く、どう演出されたのかすごく気になりました。
今回、セリフを書いていないシーンが多いんですよ。たとえば、以前に「Tokyo 2001/10/21 22:32~22:41」という短編作品で大竹しのぶさんに出ていただいたときは、細かくセリフを決めた上で、好きなように演じていただければ絶対に目指すところに到達できました。でも、子役さんの場合、セリフを書いてしまうと暗記することに必死になって、お母さんといっしょに練習してくるんですよね。
──なるほど…。
それだと現場での変更に対応できなくなってしまうので、主演の少年二人には台本を渡さず、撮影直前に口頭で伝えました。「いまこういうシーンです」「ふたりでサッカーして」って。それを繰り返して、「いまの台詞いいから、じゃあ次のシーンでこれとこれ言おう」みたいにやることも。大人がでてくるシーンは、子どもの台詞だけあけておいて、大人にひっぱってもらったり。
──サッカーのシーンとか、台本があったらつくれないだろうな、と思っていました。ご自身の体験からきているという話がさきほどありましたが、どういった部分がそれにあたるのでしょうか?
この映画は亡くなった親友に捧げています。その子に対しての想いとか、自分の中では消化しきれていない気持ちがこもっていて、主人公のゆらくんはぼくに近いところがありますし、彼と同じくらいの年齢だった頃の自分を追体験したい気持ちが映画を作るひとつの動機になりましたね。
演劇の制約を逃れ、映画の世界へ
──奥山さん自身はどんな子供時代を過ごしていたんですか?
小学校ではロボットをつくっていました。ロボカップって日本全国大会にジュニア部門で出場して、マジックするロボットとか作っていましたね。がんばっていた記憶があります。
──ロボット界では有名だったんですね。
いや、ちょっとがんばっている奴、という程度ですね。その後、中学で演劇が好きになって、高校でもっとのめりこんでいきました。でも友達には演劇が好きとはあまり言えなくて。放課後に一人で池袋の東京芸術劇場に行って、舞台を観ていました。大人は6000円くらいですが、高校生は1000円なので通ってましたね。同時に、TRASHMASTERSっていう劇団で、演出助手みたいなことをやっていました。
一番はじめにみた演劇は、大人計画の「ふくすけ」という舞台。大竹しのぶさんと阿部サダヲさんが主演で、いきなり客席にむかってどなりまくる。とにかく衝撃が大きくて。特に大竹さんからは、からっぽのエネルギーみたいなものを感じました。ここまで感情を動かせる表現があるんだ、と。それが原体験になっていて、いまでも全部繋がっていると思います。
──ずっと何かを作るということに興味をもっていたんですね。映像に携わるのはいつからですか?
高校の終わりごろです。演劇は観るのも作るのも、すごく楽しかったんですけど、制約があるなと。生ものだし緊張感があるところが魅力なんですけど、同時に限られた場面しか描けないので、表現に大きな制約がある。あとは単純に席数です。
公演する会場が100席だったら、「チケット料金×100×公演数」がマックスで入ってくるお金です。だから、会場の席数と公演数によって全体予算が見えてきて、それなら役者さんはこの人、セットはだいたいこんなもんと作る前からおのずと決まってしまう。手伝いながらちょっとずつ学んでいく中で、映画のほうが制約は少ないかもしれない、と気になりだして。
──表現の構造的制約を超えたかった、という気持ちが強いのでしょうか。
それもありますし、演劇が世の中で話題になることって少なくて、映画化されたりドラマ化されたりとかしないと広く知られないということも、悔しく思っていました。青山学院大学へ進学してからは、ダブルスクールで映画を学んで、助監督をやっていました。大学時代は、長編映画をつくりたいとずっと思っていて、悶々としていた4年間だった気がしています。