樹木:私は単にCMに出てるんじゃないの。もし、味の素さんになんかあったら、自分も責任を取る覚悟で出てるのよ! それをあなた、データに沿って企画をつくったなんて言わないでちょうだい! 人の気持ちを動かす表現をつくるってね、そんなことじゃないのよ!
松尾:……すみませんでした。もう一度、味の素さんと話します。そして、設定を元に戻してもらいます
樹木:そう。頼んだわよ
電話を切った時にはもう、ベルギー戦の後半になっていました。
鈴木選手が同点弾を決めた後で、テレビの中はすごく盛り上がっていましたが、私には遠い世界のことに見えました。
ぬるくなったビールで情けない気持ちを流し込み、味の素の担当営業の田中さんに電話をし、希林さんとの会話の概要を説明しました。
松尾:もう一度、島崎さんに話をしに行きたいです
田中:わかった。明日、行こう
松尾:いいんですか?
オリエンとプレゼンで、2度も翻意に失敗しているのに、3度も付き合ってくれた田中さん。
「希林さんにそこまで言われたら、行くしかないな(笑)」と営業部長の大久保さん。
「また説得に行ける良い機会をもらったじゃん(笑)」とクリエイティブディレクターの矢谷さん。
16年前……。この頃の大人たち(上司たち)はカッコよかった。宣伝部の島崎さんもカッコよかった。1ミリも怒ることなく、
島崎:分かりました。もう一度、事業部と掛け合います。時間をください
むしろ、我々の提案を待っていたかの如く、微笑んで受け入れてくれました。
ドラマや映画なら、ハッピーエンディングになったでしょう。しかし、現実はそうなりませんでした。CMの設定は元に戻ることなく、一人暮らしをはじめた娘が母親に手作り料理を振る舞う企画のままで制作準備が進んで行きました。