コンットリは子どものころから“代替”現実をかじっていた。1980年代の終わりに流行ったテーブルゲームで、SFのロールプレイングゲーム(RPG)の「シャドウラン」をプレーしていたのだ。人間がCGの世界を現実世界として認識するディストピア映画『マトリックス』を観てからは、ヘルシンキ大学でコンピュータ科学を学ぶことを決めた。また、ヴァルヨの共同創業者であるローペ・ライニストは、ヘルシンキ工科大学で情報ネットワーク学を専攻した。
コンットリとライニストが出会ったのは、小さなソフトウェア会社「アブソリューションズ」だったが、2人が同志になったのはノキアに移ってからだ。ノキアで2人はN900のユーザーインターフェースの開発に携わっていた。N900はオープンソースの高級スマートフォンで、09年の終わりごろに高く評価されていた。ヴァルヨの最高技術責任者(CTO)兼創業者のクラウス・メラカリも、ノキアで携帯電話プログラムのディレクターや技術設計者を務めていた。そして、ノキアで複数のプログラム・マネジャー職やディレクター職を務めたニコ・エイデンが加わり、ヴァルヨの創業者4人組が結成された。
ヴァルヨが学んだ重要な教訓の多くは、4人のノキアでの経験から得たものだ。コンットリは、ノキアでは、人に強制的にイノベーションを起こさせることが可能だということを学んだと話す。
「“ワークショップ”を実施したんです。目的は、80件の特許技術を開発することでした。そのうち、使い物になるのは4件という計算でね」
デザイン責任者兼共同創業者のローペ・ライニスト(手前)と、マーケティング責任者のユッシ・マキネン。
そこでコンットリが学んだのは、ハードウェアを基盤にした製品を作るべきだということだった。
しかし11年に、そういった開発努力のすべてがストップした。ノキアが独自のモバイル機器向けオペレーションシステム「Maemo(マエモ)」関連のプロジェクトすべての打ち切りを発表したからだ。当時、N9スマートフォンの開発真っただ中だった同社はこの一件後、破たんに向かっていくことになる。
コンットリはこの事件を、自分のキャリアで最大の劇的な体験として記憶している。
「あの時はみんな泣いていて、とてもつらかった。あれからすべてが崩壊し始めたんです」
13年、マイクロソフトがノキアの低迷するデバイス・サービス事業を約79億ドルで買収した。エイデンは、未来のテクノロジーに特化する一方で、モバイル技術およびカメラ技術、そしてVRに力を入れるマイクロソフトのフォワード・ラボのプロジェクトを指揮。後にホロレンズとなるヘッドセットの開発に取り組むことになった。コンットリとメラカリも、それぞれ製品マネジャーと製品デザイナーとして、エイデンのチームに所属していた。一方、ライニストは、マイクロソフトの主任デザイナーになっていた。
「使い勝手のいい、世界中で使えるオペレーションシステムの作り方というものを、学びましたよ」
だが、2年もたたないうちに、マイクロソフトはこのフィンランドの携帯電話事業の資産を切り捨てた。
そしてコンットリら4人は、選択を迫られることとなった。マイクロソフトの社員として米国に移住するか、それとも失業するか...。
“特別なもの”を作っている
結局、4人は多額の解雇手当をもらう道を選び、この選択は吉と出た。
4人はしばらく、コンサルタントとしてフィンランドのスタートアップが大企業に製品を売り込む手伝いをすることにした。その過程でベンチャー・キャピタル「ライフライン・ベンチャーズ」などと出合い、資金を得ていった。ライフラインは、後にヴァルヨとなるスタートアップに、マイクロソフトが出資した9万3000ドルに追加する形で、70万ドルを出資。この他、フィンランド人のビリオネア、ハイム・“ポユ”・ザブドウィッツがオーナーを務める投資会社「タマレス・グループ」が11万7000ドルを出資した。
こうして資金を手に入れ、4人のチームが再結成された。しかしこの時点で、コンットリの頭には、既存のVRヘッドセットと組み合わせることができるシースルー技術を開発するという、ぼんやりとしたアイデアしかなかった。チームはしばらくの間、人間の目の仕組みの研究に没頭し、ホワイトボードに次々とアイデアを走り書きしていった。ひらめきが訪れたのは、その年の秋のことだ。